2021/10/10 18:21
前年の暮れも押し詰まったある日、キクエ夫人ととし子専務は、懇意の院長先生と柳一子総婦長から、忠右ェ門の体がかなり悪い状態にあることを知らされた。
片足は一方の足の倍程も腫れあがっていた。脳血管に動脈硬化がみられ、血行を絶やしはじめていることが、身体と言語の反応の鈍さにあらわれていた。
治療においても、看病においても、懸命な努力をしたものの、快方に向かうことは無かった。糖尿病も併せて忠右ェ門の身体を蝕んでいた。
暑い夏もどうにか過ぎた。
忠右ェ門はもてる強靱な精神力を、すでにつかい果たしていた。
その日は朝から気持ちの良い青空がひろがり、吹く風もこころなしか涼しかった。
九月九日午前十一時十五分、稲忠漆芸堂の創業主で会長をつとめる、稲垣忠右ェ門は家族に見取られ、波瀾に富んだ生涯を終えた。享年七十五歳であった。
葬儀は自宅近くの善龍寺で行われ、訪れた参拝者の半数ほどが、御堂に入りきれない、というほどの多くの人々の御参があった。死因は脳血栓であった。
法名、穏和院釈忠門。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して