2021/10/10 18:20
本橋さんご夫妻との伊豆箱根の旅行が、忠右ェ門にとっては最後の旅行となった。昭和五十三年の仕事始め式で、恒例の如く「ことしも社員一同で目標に向けて頑張ろう」と、手短に話した。
毎年この日は、営業社員と職人が一緒になって新年を寿ぎ、年季の開けた弟子を祝う日であった。輪島地方独特の"まだら"という祝い歌も間の手を入れながら一同で斎唱する習慣があった。
稲忠漆芸会館は前年にも増して観光客が訪れていた。五十一年に購入した元ボーリング場については、活用方法にいくつかの案が出ていたものの、施設が大きいこともあって、なかなか思うような具体案が生まれなかった。
不慮のできごとが起きた。
外は凍てつくほど冷え込んでいた。いつものように遅くまで起きて礼状を書いていた忠右ェ門が、寝る前にシャワーを浴びようとコックをひねったところ、にわかに熱湯が降り注いだのである。
普通の人なら瞬間、横に飛び退けていたであろうが、忠右ェ門は近年糖尿病がもとで、膝が思うように動かなくなっていた。熱湯を必要以上に浴びて、背中に大ヤケドを負ってしまった。不運であった。そして、不運が重なった。
深夜であったので、忠右ェ門は家族にヤケドの症状を見せることなく、堪えにこらえて、唸りながら朝まで待ったのである。あの時、すぐに救急車を呼べは良かったのに、と後で家族が後悔しても始まらなかった。忠右ェ門の我慢強さが症状を重くしてしまったのである。
忠右ェ門の父の隆三郎という人は医者であったが、稀れにみるおおらかな医者であった。よく冗談とも本音ともつかず「俺は病人が嫌いだ」と言う人であった。その子供の忠右ェ門は稀にみる「病院嫌い」であった。
翌朝、輪島で気骨ある恩情医者として名高い、そして稲垣の家のものが、なにかというと診てもらっている新田医院に出掛けていった。新田先生はそんな時は救急車を呼ばなければ駄目だと、笑いながら忠右ェ門を叱った。輪島市立総合病院へ入院を進めるのであった。
十日ほどの入院であったが、その間、子供のようにすぐに家に帰りたがった。
退院はしたが、身体の養生が必要であった。もう無理は利かない身体であった。
稲忠漆芸会館の横にある、長女のとし子専務の住まいで静養することになった。わずかな人院生活であったが、体力の衰えが目に見えるようだった。だが忠右ェ門自身は、まだまだこれから一仕事もこなすのだ、というほどに強固な意志がありありと見えた。
おや、父はどこへいったのかしら?と、とし子専務が部屋にいないので捜していると、社員が「会長はボーリング場の中にいますよ」というように、ひとときもじっとして居られない性分であった。またそうだからこそ、今日まで自ら身体を張って会社を支えることができたのであろう。
ふきのとうが幾つも、勢いよくうらの堤から顔を覗かせていた。そろそろ今年も観光シーズンがやってくるな、と忠右ェ門は春の息吹を感じていた。二十年前までは、来る日もくる日も行商の明け暮れであった。時代も変わった。そして輪島の町も変わった。かつて三河から輪島に来た時、よく朝市でその日のおかずを買ったものだが、観光客などはひとりもいなかった。それが今では朝市が能登観光の最大の目玉商品となっている、そんな変わりようだ。
忠右ェ門は時間があれば、まだ転用方法の決まっていないボーリング場内と、この秋に建立を予定している、観音菩薩像を安置する予定の場所に足を向けていた。
新聞紙上では、毎日のように犬ゾリを駆使して北極点へ遠征中の、冒険男・植村直巳の足どりが報じられていた。
どうも身体の調子がおかしい。一向に良くならない。足は以前にもまして動かなくなっていた。膝ばかりではなく、足も片方が太くなってきている。糖尿病は以前から悪かった。この間のヤケドも、なぜか後をひいているように思われるのであった。
家族の勧めが強いこともあり、渋々と忠右ェ門は輪島市立病院に入院をした。
「とにかく親父は病院嫌いでした。自分の回りに病人がいるだけで、気持ちが滅入ってしまうほうでした。時として弱気になることはあったけれど、九十五歳ぐらいまでは生きるんだと真面目に言っていた人ですから」
と、忠右ェ門の長男で、弟の民夫社長を側面から助力している稲垣忠彦氏が語る。
「入院中にベッドにいないので、おかしいと思って捜していたら、おもうにまかせぬ足取りで、塚田のとし子(専務)の所へ向かっているんです。看護婦さんとなだめすかしてようやく病室にもどりました。またある時は、暗くなった病院の裏口玄関のところで、ポッンと立っているんです。もう私はどうしていいかわかりませんでした」
十年前のことを思い起こしたキクエ夫人は、目頭をあつくしながら語ってくれた。
病状は糖尿病のほかに、脳障害もおきていたようである。反射神経も鈍くなり、言葉も幾分もつれ気味になっていた。
病院での楽しみといえば相撲のテレビ中継であった。相撲をみているひと時は、いきいきとした顔に戻っていた。入院したあと二回ほど、次女のすま夫妻のところに遊びに行った。その時の忠右ェ門は気分も爽快のようであった。
入院して半年後、風も冷たさを増した晩秋の十月二十三日に、忠右ェ門が願主となって建立した、白衣観世音菩薩像の入魂の法会に参列のため、久し振りに稲忠漆芸会館に戻った。晩秋のかぜは頰を切るような冷たさがあった。参列者のだれからも「会長、くれぐれも体をお大事に」と心配の声がかかった。忠右ェ門は声を出す代わりに、ただ頷くばかりであった。
白い幕が落とされ、麗しい観世音菩薩のお姿が目の前に浮かんだ。忠右ェ門は思わず手にもった観音経の白い写し紙を握りしめていた。
*
八ケ月目の闘病生活に入っていた。もう師走に入っていた。埼玉県川口市に住まわれる本橋正義ご夫妻が、忠右ェ門の病状を見舞いに病院を訪れていた。一年前にはあれほど元気な体であった忠右ェ門と、これが同じ人物かと見間違えるほど衰弱していた。「会長さん、また元気になって旅行しましょうよ」と本橋さんご夫妻に声をかけられた忠右ェ門は、力のない笑みをうかべて、見舞いにきてくれたお礼を述べた。
病院を出たとたん、本橋さんご夫妻は涙がでるのを堪えられなかった。本人の前ではそんな顔をみせることは出来なかった。
本橋さんご夫妻は翌早朝に輪島を発った。まだ五時前の暗闇の中であった。車で輪島駅近くまで走ってくると、道路の傍らに人が立っていた。おや、と本橋さんはブレーキを踏んだ。看病のままの寝間着姿でキクエ夫人が、見送りに出ていたのである。
前日、見舞いに上がった時に、あくる朝の出発が早いのでと、言った言葉をキクエ夫人が聞いていたのだった。
昭和五十四年になった。イラン革命のニュースが、毎日のようにテレビや新聞紙上をにぎわした。忠右ェ門はあまり話さなくなっていた。入れ歯を取ったこともあり、健在時にくらべると見るからに老けこんでいた。
五月にはイギリスの総選挙で五年ぶりに保守党が政権を奪取し、首相に『鉄の女』サッチャーが就任した。
現社長民夫が、初めて本格的な事業として取り組んだボーリング跡地の転用には、喜美恵夫人の内助があったことを見逃せない。
民夫社長は具体的な転用策で悩んでいた。幾つかの転用案があったが、いずれも帯に短し、たすきに長しであった。
しかし、民夫社長には捨てがたいアイディアがあった。それは前年の夏、喜美恵夫人の実家でみた石崎奉燈祭の『キリコ』を活かして、何かできないだろうかと、いう閃きに似た発想であった。石崎奉燈祭を見た感動はいつまでも残っていた。
能登にキリコは数多くあるものの、なんといっても石崎のキリコのようなスケールの大きいものが必要であった。そのキリコが入手できるかどうか、民夫社長は喜美恵夫人に実家のご町内の意向を祈るような気持ちで打診していた。
「社長、石崎のキリコを譲ってもらえたわ」
五十三年の夏のある日のこと、実家に赴いていた喜美恵夫人から弾んだ声の電話が入った。
石崎のキリコが手に入ることになったのをきっかけに、民夫社長は観音塚の工事に立ち会いながら、暇をみては能登各地を回ってキリコを集め、キリコ会館建設へ着々と準備に入っていたのである。
五十四年六月一日、能登のお祭館『キリコ会館』がオープンした。この日は市民や観光客に無料で解放された。また三日前の五月二十八日には、オープンのための祝賀会が行われた。本橋正義さんは、輪島市観光協会長の時国恒太郎さんと並び同じテープをカットした。キリコ会館のロビーには、百八十名の来賓が詰め掛けていた。
忠右ェ門は病院のベッドで、虚ろながらもオープンのテレビニュースを見ていた。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して