2021/10/10 18:19
世の中にはいろいろな出会いがあるものだ。忠右ェ門夫妻と埼玉県川口市に住んでおられる本橋正義夫妻との奇縁もそのひとつである。今も仲睦まじく夫婦そろって健勝でいらっしゃる本橋正義ご夫妻が、昭和三十年代の始めに能登旅行にみえられ、輪島市内に投宿した。バスで稲忠漆器店(当時の名称、後の稲忠漆芸堂)に立ち寄り輪島塗を所望されたのが、きっかけとなった。バスの見学時間が限られていたので、買われた品物を後ほど宿にお届けしたのである。
人間関係というものは、まことに微妙な部分があるようだ。いわゆる波長が合う合わないという関係である。本橋さんは稲忠にすっかり惚れ込んでくれた。稲忠の家族も本橋さんご夫妻に、お得意さんを越えた親近感を抱いたのである。
本橋さんは若い時に、川口特産の鋳物の仕事をしてご苦労をなされた時代もあったいう。後に駅前にパーキングを経営するようになり、地域の有力者として地域発展に大きな尽力をしてきたお方である。旅行が大好きで、全国どこへでも自分で奥さんを乗せて、車ででかけるという人でもあった。海外旅行にも頻繁にでかけたが、日本ほどいいところは無いとおっしゃる、情趣を尊ぶお方である。
本橋さんご夫妻が輪島に来ると忠右ェ門夫妻は、お得意さんであることを忘れて、友遠方より来る、といっあんばいで夜おそくまで話しこむのであった。バスで旅行するのとは違ったところなども御案内させていただいた。
昭和五十二年十一月八日の夜、忠右ェ門・キクエ夫妻は、本橋さんご夫妻のご招待を受けて、ともに熱海温泉の水口園に憩っていた。
多忙な日々の生活を思いおこすと、うそのような時間であった。社長は息子に任せたが、忠右ェ門は持ち前の性分もあって忙しい毎日をおくっていた。
それだけに本橋さんご夫妻のこころ遣いが嬉しかった。こんなにゆっくりと寛ぐことは、輪島にいては到底できないことであった。
不思議といえば不思議であった。忠右ェ門と本橋さんの奥さんの美江さんは、一回り違いの兎年であった。明治三十六年生まれと大正四年であった。本橋正義さんとキクエは明治四十三年の同じ犬年であった。そんなこともあとで判り、出会いの縁といい、年まわりの偶然といい、あまりの奇縁の不思議さに大笑いをしたこともあった。
以前にも忠右ェ門夫妻は、ご夫妻の招待で四人で日光へ行ったこともあった。本橋さんはその土地の歴史や文化に詳しいお人で、いろいろと見学先で生のガイドをしてくれたのである。その時に、忠右ェ門は日光東照宮の境内の公衆トイレがひどく汚れているのを見て、観光地としてはあまりに無責任だと、さっそく得意の早書きで役場の観光課に書状を送ったそうである。
「稲忠さんはそんな人でした。全国から観光に沢山見える土地なのに、これでは地域のマイナスになる。第一訪れる旅行行者に失礼だと、書面をしたためたのでしょうね。良い観光地にするのは、能登や輪島だけではなく、全国どこの観光地でも良くなってもらいたかったんですよ。あの人の観光地に対する厳しさは、結局は自分への厳しさだったんでしょうね」
と、本橋さんが十年以上も前の記憶といいながら、昨年の暮れに川口のお宅でその折りの事を聞かせてくださった。
忠右ェ門の投書に対して、手紙を戴いたことへのお礼と早急に改善をするとの意図を書き込んだ、役場からの丁重な礼状が届いたのは、その数日あとのことであった。
宿の心をつくした料理を時間をかけて食べながら、四人はゆっくりと会話をたのしんでいた。そんな中で、
「本橋さん、私が居なくなったら大久保彦左ェ門になって、うちの子供らに注意してくださいよ」
いつもの忠右ェ門の癖である、三本の指で挟んだタバコの火を上に向けたまま、ポツリと言った。
「何言ってるんですか稲忠さん。冗談も休み休み言ってくださいよ」
と、本橋さんは答えた。
二組の夫婦はまさに血のつながらない親戚そのものであった。
十一月九日、本橋さんの運転する車で、伊豆箱根スカイラインに入って箱根路へ向かった。紅葉の季節であった。
慌ただしい人生をすごしてきたが、こんな機会を与えてくださった。感謝という二文字以外に言葉はなかった。ほんとうに有り難いことであった。
やがて芦の湖に近い箱根神社についた。参拝のために境内下の駐車場におりた。
晩秋の箱根路の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ひんやりした空気になにか神々しい感触を得た。四人ともそんな思いにかられたのであった。
おや、と本橋さんは耳を済ました。
神社の社殿の方から、笙の笛が聞こえてきたのである。神々しさを感じた空気は、この音色が運んできたものであった。四人は階段を上がっていった。静まり返った境内に黒い車が停まっていた。
少し離れたところで見ていた四人の前に、すーと降りられたのは、美智子妃殿下と紀宮親王であった。目を疑ったが、まさに目の前に麗しいお姿でお立ちになっておられたのである。四人ともこどものような眼を開いて、この奇遇に出会ったことの感激をかみしめていた。
神殿の前で柏手を打ったあと、四人ともしばらく手を合わせたままでいた。
「今回の旅行は素晴らしいものになりましたね」
と、いう本橋さんの言葉を待つまでもなく、忠右ェ門も全く同感であった。
空は曇っていたが、高貴な方との出会いもあり、四人は胸が高なっていた。
「稲忠さん、富士山へ上がってみましょうか」
と、にわかに本橋さんが言った。
忠右ェ門夫妻もぜひ上がってみたい富士山であった。北陸地方に住んでいると、天下の富士山を見る機会さえない。北陸で山といえば越中の立山、加賀の白山と相場が決まっていた。
下が曇っているから、上はもっと曇っているかもしれないと思いながらも、今日は付いているからねと、四人を乗せた車は、慣れた本橋さんの運転で五合目にむけて登り始めた。
奇遇は重なった。
山の下ではあんなに曇っていたのに、海抜二千五百㍍付近のこの五合目に到着してみたら、鮮やかに晴れわたっていた。
輝かしい富士山が眼前にあった。すぐ側まで新雪が被っていた。たとえようもない秀麗な姿であった。頂上までくっきりと見渡すことができた。浅間神社の鳥居が、陽光にあたり、キラキラと輝いた。
この世のものとは思えない別世界が、四人を待ちうけていてくれたのである。白たえの富士山は自分の手の平の中にあるとさえ、忠右ェ門には思われた。
忠右ェ門は感謝をささげていた。本橋さんご夫妻に、そして誰にということなく、多くの人々に感謝を表していた。富士山にも、自分を包んでいる空気に対してさえも感謝したい気持ちで一杯であった。
ふと観音様の面影が過った。白衣をまとった観音様が新雪の富士山と二重に映し出されていた。
この日は忠右ェ門七十四歳の誕生日であった。最良の日であった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して