2021/10/10 18:18
五十二年一月五日午後から恒例の新年仕事始め式をおこなった。毎年この日に行う習わしとしていた。工場勤務の職人らは、暮れからこの日までが休日であった。
八十名ほどの従業員の前で、新年の抱負を述べた。ボーリング跡地のことも報告した。従業員に不安感を与えることはできなかった。将来の稲忠を考えるときに、また働く社員とその家族を考える時、どうしても必要な措置であった旨を話した。
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一月二十日にはアメリカのカーター新大統領が就任した。連邦議会議事堂からホワイトハウスまでのパレードで、途中から車をおりて家族と腕を組みながら歩き『ふだん着の大統領』を印象づけた。
また一月下旬、おなじアメリカの中西部と東部地方に猛烈な寒波が押し寄でマイナス40度を記録をして多数の死者を出した。
今年はいろいろなことがありそうだ、と新聞から目を離し、「さあ出掛けるか」と歌人に声をかけ、忠右ェ門は恒例になっている漆器組合の新年会の会場に向かった。
いつも酒を控え目にしていた忠右ェ門だが、その日はいささか飲みすぎていた。
組合長を経験した忠右ェ門は、漆器組合の顧問であった。その日の宴席はいつもにも増して賑やかであった。つい酒を注ぎ、注がれている間に飲みすぎていた。会員の中には酔ってろれつの回らない男もいた。
「稲忠さん羽振りがようござんすな」「ボーリング場を買われたそうですな」「塚田の店にはたいへんなバスが入っておりますな」「あそこで何をなさるんですか」
と、注ぎに来られた人らが銚子を傾けながら、いろいろと話しかけてきた。
「まあ、どんなことになるやら。多くの市民の方々によろこばれる施設にできればと思っておるんですが、なかなかねえ」
と、忠右ェ門はあいづちを打った。
夜おそくなって家にもどった。いささか酔っているのが自分にも判った。いつも店で座っている土蔵前の畳の隅に、そのままゴロリと横になった。自家にもどった安堵感で、もう忠右ェ門には二階にあがる気力もなくなっていた。
忠右ェ門が風邪をひいた。風邪などひいたこともない忠右ェ門にしては、めずらしいことであった。今まで、風邪は気力不足から生ずる気の病だと思っていたが、かかってみれば、気力も体力もいっぺんに骨抜きにされたような感じであった。
俺もそろそろ年だ、と忠右ェ門は横たわった体で珍しく弱気を吐いた。
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この年の七月、株主総会・取締役会で忠右ェ門が議長となり、稲垣民夫社長を推挙した。稲忠二代目の社長誕生であった。忠右ェ門は会長になり、一歩下がることにした。
次男の民夫社長を指名したのは、稲垣家の四男で育った忠右ェ門の見識であった。
子供の誰かが継いでくれればいい。そして兄弟姉妹がみんなで協力をしてくれればそれでいい、という見識であった。
忠右ェ門が社長を退き会長になる決意をしたのは、漆器組合の新年会のあとに、風邪を引きこじらせて苦しんだあの時である。いつまでも自分が第一線にいたのでは後が育たない。自分がまだ元気で後見できるうちに、若い者にバトンタッチしておくのが息策であろうと思うようになっていた。
「父からバトンを引き継いだんですが、そのあと父が病気で倒れてしまって具体的な相談もほとんど出来ずじまいでした。でも病床にいても父がいるというだけで、心丈夫でした」
当時を振り返り、稲垣民夫社長はしんみりと語った。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して