2021/10/10 18:18
車社会は奔流のごとく押し寄せていた。
能登を訪れる観光客はうなぎのぼりに上がっていった。稲忠漆芸会館が輪島市塚田海岸に進出した四十六年には、輪島市の調べによると百五十万人の入込み観光客が来訪し、翌四十七年にはついに二百万人に達した。そして四十八年は、なんと二百二十万人という驚くほどの観光客数を記録している。忠右ェ門の読みは、入込み観光客の数字の変遷を見る限り、ピタリと当たっていた。
塚田海岸に出てきた四十六年には、ここなら広いと思った場所が二年もすると、時として狭く感じられるようになっていた。バスの入込数が急激に増えていた。
一日のうちに平均して入ってくれれば問題はなかったが、入ってくる際は何処のバスも一緒になるというケースが多く、ドライブインの泣き所であった。
もう少し駐車場のスペースが欲しくなってきていた。店舗は大きければいいというものではないことも充分承知していたが、適切な施設のバランスは必要であった。
予期した以上に車社会の到来は早かった。道路拡張整備が後をおいかけるのに精一杯という感じであった。
四十七年には東隣りの施設を借りうけ『レストラン花車』を開設していた。
その隣には、閉鎖中のボーリング場が横たわっていた。
昭和四十年代前期に全盛を誇ったボーリングも、後半には全く下火となっていた。
四十八年頃にはかって三十六レーンを誇った輪島スプリングレーンズも休業状態になっていた。ゲームに人が訪れない巨大な建造物をかかえたボーリング場の跡地は、時代の遺物という感じが漂い寂しいものであった。レストラン花車のすぐ東隣りに、空き地があった。ボーリング場の横側駐車場の跡であった。
そこだけでもお譲りいただけないだろうかと、忠右ェ門が持ち主に打診をしたところ、部分的な切売りはできないが、建物付で土地を売却するなら譲ってもいい、という返事であった。土地のことでは、輪島の町に住む親しい谷川勇氏が、いろいろと間に入ってくれ、現社長の民夫とともに交渉の役割までしてくれた。
昭和五十一年六月、ボーリング場跡地を購入した。
忠右ェ門最後の『賭』であった。
建造物が千坪、敷地が二千坪という広大なものであった。三億円の資金調達が必要であった。巨額ではあったが、それだけの価値があるところであった。低利息の融資を受けるために、忠右ェ門は金策に走った。資金繰りには苦労したが、なんとか購入することができた。
不動産の物件購入では三番目の『賭』であった。今度は大賭であった。
「ここが無くなる時は、漆芸堂も漆芸会館も無くなる時だ。それは会社が無くなり、社員とその家族が路頭に迷うことを意味するものだ」
と、忠右ェ門は不退転の意志を固める中に、不足の事態は絶対にゆるされない、と思いを新たにするのであった。
<俺の最後の賭になりそうだ>と忠右ェ門は思った。
幸い長女の専務とし子も、次男の常務民夫も、今度のことは賛成してくれ力になってくれそうだった。これは心強かった。忠右ェ門はすでに七十三歳になっていた。
年齢的には老齢にさしかかっていたが、忠右ェ門は風邪ひとつひかない身体であった。まだまだ俺は第一線で働けるぞ、という自負が忠右ェ門にはあった。
もともとは海側の輪島市の保有する土地に建物が建ち、景観を阻害してしまうために、代替地が必要ということもあって花車の横の駐車スペースが欲しいということになったボーリング跡地の案件は、最後は膨大な面積を有する建造物付の土地物件の購入になった。
古いうえに広大な建造物であったので、その用途については慎重に考える必要があった。だが、いつまでも放置しておくことも許されなかった。金利も嵩むし、建物は放置すればするほど傷みが早かった。
この年の十一月十八日、民夫(現社長)と鹿山君江(現取締役)の結婚式がめでたく挙行されたが、その三日前に金額払い込みを終えたのである。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して