2021/10/10 18:16
「ほんとうに、よく眠っていました。それもきちんと座りながらですよ」
忠右ェ門を知る人から、よくそんな言葉を聞く。本人も生前、親しい人らに「わしは居眠り旦那とよばれているんだ」と笑って言っていた。
漆器組合、観光協会などの役員会、あるいは商工会議所での常議員会などでも、忠右ェ門のこっくり姿はよくみることができた。他人の話を聞きながら眠れるという、特技の持ち主であった。
「俺は昭和のナポレオンだからな」と、忠右ェ門は家族の者に冗談を言った。
一日の睡眠は三時間とれば充分であったそうだ。寝るのは夜中の三時と相場が決まっていた。夜中に何を書いているのかと家族が覗くと、真面目に内閣総理大臣宛てに手紙を書いていたこともあった。
若い時代は働きづくめで、息抜きのできない性分だった。だから兎の目のようにいつも赤い目をしていた。寝る時間がなかったので、当然の帰結であった。年をとってきても相変わらず多忙であった。身体をつかうことよりも、会議などが多くなっていた。忠右ェ門は色々な公職にもついていた。奥能登地区全般を網羅する、穴水雇用対策協議会の会長も長年っとめた。
忠右ェ門死去の後、この職務は五嶋耕太郎(現輪島市長)氏が引き継いだが、五嶋氏が市長に就任してから、稲垣民夫社長が就任し奇しくも親子二代で努めている。
「都合の悪いことは、聞こえなかったみたいですね。でも事が核心に迫ると、始から聞いていたような調子で発言もしましたよ。後は会議の終わる直前、やおら手を上げて、道路問題の改善について、いつもの調子でとうとうとやっていましたよ」
忠右ェ門とよく会議で同席した人の話である。
居眠りをしながら話を聞くことができるのは、忠右ェ門のしたたかな健康管理の秘訣であったようだ。
道路のことは亡くなるまで執着していた。小さな巷の会議での発言から、国の国土庁長官や県知事にまで直訴の手紙を書いて陳情までした。それも輪島の町の道路改善ではなく、早くから加賀や口能登地区の実際に悪い道路を指摘して、当局に改善方を要望したのである。
道路が観光振興の源であり、それに付随して輪島漆器の需要も上がる、という一徹な信念を生涯かえることのない人であった。
ひとから『道路の稲忠さん』とよばれることもあった。
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----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して