5-2 カニ族のたまり場 | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 18:13

 妻のキクエは始めのうちはあまり店に出なかった。かわりに長女のとし子が観光客の対応の中心となり、切り盛りをしてくれた。観光客の店は、若い女性がいなければ華やぎがなくてだめなものだ、と長女のとし子や次女のすまが店を手伝う動きを見ながら、忠右ェ門は痛感していた。

昭和三十九年の秋十月、五年半の歳月と三千八百億円の費用を投じて建設した、東海道新幹線が開通した。『ひかり』『こだま』が、時速二百㌔のスピードで白とブルーの車体を輝かせデビューした。この月に行われた世紀の祭典・東京オリンピック開催に間に合わせて完成させたものであった。新幹線の開通は観光旅行ブームに拍車をかけるものでもあった。

株式会社稲忠漆器店はこの年の四月、株式会社稲忠漆芸堂と改称された。観光客は年々増加を続けていた。

四十三年五月、能登半島が国定公園の指定をうけた。能登全体が観光地とし

ずけされたことになり、能登への観光客が急増した年である。冬を除いてはおもうように場所まわりをすることが出来ない状態になっていた。

忠右ェ門はロータリアンであった。昭和四十四年度には推されて輪島ロータリクラブの会長となった。アポロ11号に乗り込んだアメリカの二人の宇宙飛行士が、人類史上はじめての月面着陸に成功した年であり、また渥美清扮する寅次郎シリーズの第一作が封切られた年であった。

輪島の中央通り三丁目にある稲忠漆芸堂に、一目でそれとわかる旅行客が目についた。当時カニ族といわれた若い旅行者らであった。背中に大きなリュックを背負い、海の能登半島に来ているのに登山靴を履いているという若者たちであった。

多くはユースホステルの旅行者であった。その若者をホステラーとよんでいた。簡素な旅をすることをモットーとする、この若い旅行者らの受け入れ施設がユースホステルであった。輪島市内には長楽寺ユース、曽々木海岸には梶山ユースがあり、また付近の門前町には覚皇院ユースなどがあった。石川県の拠点は金沢の卯辰山にある金沢ユース・ホステルであった。

ユースホステルの目的自体が『簡素』をモットーとしていたぐらいだから、稲忠漆芸堂に入ってきても、若者たちはほとんど買い物をすることは無かった。工場見学に時間をかける連中であり、おまけに稲忠で出すサービス箸とお茶と一口柚餅子(ゆべし)は、しっかり忘れずにいただいて行くという旅行者たちであった。

店員らに言わせれば団体バスが入ったときなど、正直いって迷惑になりかねない旅行者でもあった。

だが忠右ェ門はこのカニ族とよばれる若い旅行者を、なにひとつ一般の旅行者と分けへだつことはしなかった。そればかりか、販売を営む店に来て、買い物をほとんどすることのないこのユースの若者達を心から歓迎していた。輪島の町の塗師屋もこの頃になると、何軒か観光客を対象にした店ができていた。稲忠の店に刺激された塗師屋も少なくなかった。だがカニ族たちは何故かこの稲忠漆芸堂のみに集まっていた。

「輪島へ行ったら稲忠漆芸堂に寄るといい。輪島塗の作業工程を丁重に案内してくれるし、お茶もお菓子も出してくれる。その上、帰りには輪島塗の箸を一ぜんおみやげにくれるぞ」

と、どこのユース・ホステルでも勧めたのである。

「稲忠さんには、全国の若者がどれほど世話になったかわからない。帰りの汽車賃もろくに持ち合わせていない旅行者もいたぐらいだから、きっと迷惑をおかけしたと思いますよ。でも、いつも稲忠さんは歓迎してくれました。しかし若い旅行者は純真です。きっと社会人になったら、またいつか稲忠さんを訪ねていくことでしょう。また青少年らが家にもどれば、旅先でうけた親切は必ず親に話をするものです」

と、日本のユースホステル運動の歴史に伴走するかのように、今日まで若者の旅を推巡してきた、金沢の家山勉さん(現石川県ユースホステル協会理事長)は当時のことを思いおこしておっしゃる。

ある時、稲忠漆芸堂の評判をきいた"遠くへ行きたい"でおなじみみの永六輔が、番組を通じて「輪島に行くと、旅を愛する若者たちを心から歓迎してくれる稲忠という店があるときいて、嬉しくなった」と放送をしたこともあった。

石川県ユース・ホステル協会では、創立二十五周年の際にささやかながらも、心をこめて稲忠漆芸堂へ感謝状を贈呈したのである。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年