2021/10/10 18:09
漆器組合長になって一年たったころ、忠右ェ門は忙殺に追われていた。
日本国内ではなんとクレージー・キャッツの植木等が歌う『スーダラ節』が大ヒット中で無責任時代への突入であった。皮肉だなあ、俺がこんなにたいそうしているのに、と忠右ェ門はにが笑いをした。
八月の暑いさなかの輪島市ご巡視のおり、高松宮妃殿下が稲忠漆器店にお立ち寄りになられた。妃殿下が店に入ってこられた時には、玄関前の通りは人でごったがえした。妃殿下は漆器のことについて大変お詳しかった。いろいろとお尋ねをうけた。妃殿下のご質問に対して忠右ェ門は、白いハンカチで汗をたびたび拭っては、輪島塗の説明を懇切丁寧に申し上げた。目の前にいらっしゃる妃殿下は、なんとも高貴なおかたであったが、また親近感のあふれたお人だと忠右ェ門は感じた。その上、もったいなくも、妃殿下より栗色小判形海老文の卓上膳のご用命を稲忠に下された。
真夏のそれも特別暑い日であったが、あわただしい漆器組合長時代にあって、数少ない爽やかな思い出となったひとこまであった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して