4-3 組合再建への礎に | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 18:07

「家にいるより旅に出ているほうが長かった主人が、組合の理事長になったら、なにかといえば組合の仕事で、自分の家の仕事に影響が出て、ほんとうに困ってしまい、長女のとし子は『お母さん、このままでは稲忠は駄目になるわ』という始末でした」

三十年前を振り返ってのキクエ夫人の話である。

受けたからには、出来るだけのことはやらねば、と忠右ェ門は覚悟をきめていた。

先ずとりかかった仕事は金融対策であった。巷では「銀行は個人には貸しても、組合には貸さない」と公然と言われていたほど、漆器組合の信用は失墜していた。

となれば、これは自分の責任において借りるしかない、と忠右ェ門は組合が個人から借金しているものを返済して、市中の銀行より融資をうけて金利の軽減をはかったのである。組合に代わって自分が銀行の保証をした。そうするより方法はなかった。

組合員からの会費以外には、さしたる収入の道もない組合の財政では、金利の軽減だけではとうてい再建できるものではなかった。

次に忠右ェ門が取り組んだのは、地の粉対策であった。地の粉は輪島漆器にとっては『命』に等しいものであったが、その製造や管理にはいくつかの問題があった。

さっそく地の粉対策委員会を設置し、委嘱した委員らによって実情が調査された。

地の粉山から掘り出された黄土(珪藻土)を製粉する工場が河井町の観音町にあった。当時、製粉は手作業であり、舞い上がる粉塵は周囲の空気を汚染した。付近の住民の好意ある協力はあったものの、苦情の種でもあった。

黄土を燻焼する作業は一本松公園の麓にあり、近くには警察署の官舎もあった。火災の危険もあって、雨天の日はもとより風が少しでもあれば、燻焼作業はできず、まぎれもない公害問題であった。

また製粉したものの販売方法も升のはかり売りという状況であった。そのためか生産量と販売量が必ずしも一致しないこともあり、ナイロン袋に粒子別に一定量封入したものを、多少利益がでるような適正価格で発売することにしたのである。

さらに、町中で人口が密集している観音町にある工場を公開入札制をとり売却し、代金を一部借金の返済にあて、一部は運転資金にふりあてた。同時に当時の永井元雄市長とのあいだに締結していた地の粉採掘現場、及び付近一帯の土地の無償賃借契約を活かして、付近に、これも無償で贈与をうけた旧工場を移築し、燻焼場も移したのである。

その際に忠右ェ門は、新工場への取り付け道路を、輪島に駐屯している航空自衛隊の司令に懇願した。また輪島市から要請したこともあって、自衛隊の隊員の手によって新工場への道が完成した。組合の経費を支出することなく立派な道路ができた。

基地司令と忠右ェ門とは、日頃より昵懇の間柄であった。

当時の組合員であり、後に漆器組合の専務理事、常務理事を長年つとめられ、さらに後年、稲垣忠右ェ門に請われて稲忠漆芸堂の相談役になり、現監査役をしておられる熊野穀さんが、その間の事情に詳しい。

「稲垣さんが理事長時代に手掛けた幾つかの仕事で、見逃すことの出来ないものは、漆器組合で初めて売店を開設したことですね。観光の時代が来るのを稲垣さんはもう見通していたんでしょうな」

熊野さんはそうおっしゃる。その年さっそく計画を上回る成績をあげて、組合財政再建の望みを見出したという。

後に漆器組合の財政基盤を揺るぎないものにした、総合売店への礎石となった。

組合長として数々の実績をあげながら、忠右ェ門は在任期間を残して昭和三十八年一月に組合長を辞任した。

「やれることだけはやった」

忠右ェ門の偽らぬ心境であった。辞任してようやく、まともに家族の顔がみれるようになった。

<漆器組合長という仕事はなかなかしんどいもんだ、言うことは易いが実行するとなると、ちょっとしたことでも慎重でなければいけなかった>

外では人の前で怒った顔をみせたことがない、という忠右ェ門が理事長時代に一度だけ、どうしても腹の虫が治まらなかったことがあった。

さざえの尻といってしまえばそれまでであったが、やねこい(しつっこい)男が組合の理事の中にいた。他人の心に土足で踏み込んで、相手を傷つけることで、溜飲をさげるといった類の男であった。議題とは全く関係ない、忠右ェ門の家のプライベートな問題を、なんと正式な会議の中で発言したのであった。

人には言っていいことと悪いことがあることを、全く知る術のない男であった。忠右ェ門は居並ぶ役員の席上で、はじめて声をあらげた。

「君、外へ出てわしと相撲をとるまいか!」

いかにも忠右ェ門らしい怒りかたであった。味わいのある怒りかたでもあった。

 

*

 

組合長時代には事務をとる人にもことを欠いた。そのおりに、奉仕で忠右ェ門を支援してくれた古今伸一郎さんを忘れることはできない。三河から移り住んだ昭和の初期から、地縁の全くない忠右ェ門夫妻になにくれと理解をしめしてくれた人である。

知らない土地に来て、何かあったとき相談相手になってくれる人が側にいるほど心丈夫なことはない。古今さんは忠右ェ門にとっては、そういうお人であった。

忠右ェ門は古今さんより若かったが、他界するのは先だった。葬儀委員長をしてくれたのも、この古今伸一郎さんだった。

古今さんの晩年は郷土史編纂のためにひたすら情熱をささげた。後世にのこる資料編六巻、通史一巻の輪島市史完成のための大きな礎となった。忠右ェ門と古今さんとは、性格もかなり違っているようにみえたが、お互い明治生まれの気骨の持ち主で、いつも尊敬と信頼を忘れることのない間柄であった。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年