4-2 火中の栗 | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 18:06

 昭和三十一年から三十四年の間に三回もの大水害に見舞われ、打撃を被ったのは個々の住民や塗師屋ばかりではなかった。漆器組合もまた同様であった。

昭和三十一年の水害で漆器組合は保有していた地の粉や漆液、副資材など建造物の破損も生じ、大きな被災を受けた。財政基盤がもともと弱かったこともあり、漆器組合の打撃は大きかった。それに加えて、県と市の助力を仰ぎ、起死回生の一策ともくろんだ近代的な木工共同作業所が、業界において思うように活用できる土壌ではなかったという見込み違いもあり、維持管理費が逆に組合財政を圧迫してしまうことになった。

なんとか局面を打開しようとした組合は、今度は元の木工作業所を研物工場として開設し、請負工賃を得ようとしたが、市中の専門の研物業者に対抗する手立てもないままに、とうとうこれも閉鎖するという事態に追い込まれていった。

赤字財政の転換を克服しようとして執行した事業が、逆に裏目に出て赤字を増大させる羽目となっていった。

漆器業界は水害による打撃と他産地のプラスチック製品の進出などで、不振をきわめていた。組合費の滞納者が増えるかわりに、借金は増大し金利は嵩んだ。組合の財政は最悪の状態になっていた。

運の悪い時は重なるもので、追い撃ちをかけるように三十三、三十四年と連続して大水害が押し寄せた。

漆器組合は崩壊寸前というところまで追い込まれ、前にも後ろにもずることもできない状況にあり、まさに正念場を迎えていた。

昭和三十五年の夏のある日のこと、

「稲垣さん、ぜひ理事長になってもらえんかね」

と、組合の有志らが忠右ェ門に漆器組合理事長就任の打診にみえた。

忠右ェ門も一連の漆器組合の事情や背景を承知していた。歴代輪島漆器の総元締の職貴に、他国から来た人間を活用したことのない業界であった。また輪島を背負って立とうという人材も多くこの地に輩出していた。この日まで、忠右ェ門を塗師屋として育ててくれたのは、まぎれもなく輪島の風土であり人々であった。

だが、時として輪島の地は『さざえの尻のような』という喩えもあるように、保守的で排他的なところがあるのを、忠右ェ門はこころの片隅にいつも感じていた。それはほんの部分的な感情だった。三河に生まれ育った忠右ェ門の気質は、輪島の地に同化しようと懸命に努力するなかにも、どこか相入れない何かを感じざるをえないところがあったのも事実であった。しかし、輪島は自分が惚れてきたところであった。

忠右ェ門に組合長になって欲しい、と誰もが推挙しているわけでもなかった。

「輪島の町の中に人材がいないわけでもあるまいし」

と、言っている人がいるのも、忠右ェ門はよく承知をしていた。自分もそう思っていた。辞退しなければいけないだろうな、と思った。

漆器組合長になって、いちばん困るのは家族であり自分であるということが、すぐ想起できた。尋常な組合の状態ではなかった。

だがしかし、と忠右ェ門はひとりになってから自問自答をしていた。

<俺にあえて漆器組合長という重責を投げかけてきたのは、どういうことなのか?

俺にこの難局を乗り越える力量があるとでもいうのか。それとも、俺がこの土地ですこしは知られる塗師屋になったのなら、地域のために働けという意味なのか。いやいや、この難局ではどうせ稲垣はびくついて辞退をするだろうと、俺の甲斐性を試しているのか?巷の噂では、もう誰もこの組合の状態では理事長を引き受ける者などいないだろう、という流言も飛び交っている>

忠右ェ門はいつになく懐疑的な気持ちになっていた。ならざるをえなかった。就任して貴めを果たせなかったら、それこそ物笑いの種になるのがオチであった。どうしようか、と判断に迷った。何もしらない家族の顔をみれば、なおさらであった。

 

*

 

「私のような者につとまるかどうか、たってというのならお引き受けしましょう」

と、有志の人々に忠右ェ門は告げた。自分なりに充分考えた結論であった。

昭和三十五年八月、稲垣忠右ェ門は輪島漆器商工業協同組合の第七代理事長した。火中の栗を拾うのに、猜疑心は不要であった。

忠右ェ門が漆器組合長を受諾したのは、遺族や生前親しかった事情に明るい人々の話を総合してみると、次のような思いからだ。

<輪島塗を商うことが俺の一生の仕事だと、もう三十年前から俺は輪島で生きてきた。俺のできることは、この業界がもっとも困窮している今、俺にその器量があるかないかは別として、精一杯やってみることではないか。それがなにより世話になったこの土地への恩返しではないか。子供らもずっとここに住んでいくのだ。そして故郷の三河を出てきた俺が、故郷のみんなに報いることのできる絶好の機会じゃないか。家族にはしばらくゆるして貰おう>

予期していた以上に漆器組合の内情は困窮をきわめていた。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年