2021/10/10 18:05
輪島塗業界をたばね、漆器産業を振興させるために、輪島の町には漆器商工業協同組合がある。
藩政中期ごろから輪島の重要な産業となり、藩政末期から今日まで一貫して輪島の主幹産業として命脈を保ってきた輪島塗は、文字通り輪島の歴史の金看板といえる。
産業の振興には、個々の業者の創意と努力が必要であるのはいうまでもないが、業界全体が一枚岩となって対処しなければ解決しえない問題も多い。まして輪島の漆器業界のように、漆液の問題ひとつとってみても、業界全体がまとまっていなければ、安定供給ができないのである。
輪島塗はいつの時代においても、住民みずからが苦難を乗り越えて今日を築いてきたのである。藩政時代においても、なんら体制の庇護の下にあったわけではない。輪島塗が今日まで累々と町の主産業となりえたのは、奥能登の厳しい風土の中で、地域住民全体が生活してゆくための、最大公約数的な手段であった。
輪島は古より奥能登の中核地として栄えてきた。室町時代から藩政初期までは素麺の産地として知られた。そして素麺にとって代わり、徐々に漆器が産業の中軸になってきたのである。狭い土地で人口が多く、その上重税が課せられた地域住民が、もっともしたたかに、賢く選択したのが『輪島塗産業』であった。
気候風土において、ことさら輪島という土地だけが適地であったわけではない。
唯一あげるならば寛文年間(一六六一〜)に発見された『地の粉』であろう。
地の粉を漆に混ぜて下地塗りを施すことにより、たぐい稀な堅牢漆器が誕生したのである。輪島塗が今も昔も高価額商品であることに変わりはなく、品質の高さが切り札であった。時代とともに浮き沈みはあったものの、何時の世にも他産地との競合に振り落とされることなく今日にいたった。
そして時代とともに、塗師屋仲間がお互いの共通課題を解決し、連携を保つために組織をつくってきた。
藩政時代の天明年間(一七八一〜)には大黒講、天保年間(一八三二〜)には遐福講、明治になって遐福社、ついで輪島漆器営業者同盟となり、さらに明治三十三年から昭和十五年までの間は輪島漆器同業組合が組織された。その後輪島漆器工業組合となり、戦時下には輪島施設組合と改組された。
そして昭和二十二年、新憲法のもとずく商工業協同組合法によって、輪島漆器商工業協同組合が結成されたのである。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して