3-2 行商三眛 | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 18:02

 月の大半旅に出て、輪島に帰っても一週間いるかいないかで、また場所に出掛けていった。一時どうなるかと思った体調も好転した。ここはやるしかない、と三重、愛知、岐阜といつものようにお得意様を精力的に歴訪した。戦時中のひとときを除き、

今日までの忠右ェ門の生活は、行商の旅の連続であった。

輪島塗の歴史は行商の歴史といっても過言ではない。藩政末期から昭和三十五年頃までの間、ほとんど変わらない一貫した輪島漆器の販売方法が行商であった。

輪島では『商品を売るのではなく、人柄を買ってもらうもの』と言われてきた。忠右ェ門も全く同感であった。

時おり大きな荷物を背負って名古屋市の遠藤家にやってきた。忠右ェ門の妹のきよさんのお宅である。ご子息で、忠右ェ門の甥にあたる当主の遠藤一夫さんは、昭和三十四年から名古屋市内で医院を開業し、地域住民の医療にあたるかたわら、居合い道の達人としても、その道で知られているお方である。

忠右ェ門が遠藤家で荷物を解くと、夜おそくまで行商先の話に花が咲いたようだ。

忠右ェ門を名乗ったころのエピソードとして紹介した、文化勲章を受けた医学界の大御所、勝沼精蔵さんの話も、先年遠藤先生から聞いた話だが、輪島塗の商いに生きる忠右ェ門の『商いの哲学』といったものを、さりげなく甥の遠藤先生に話していることが窺えた。忠右ェ門は生涯この理念に徹して生きた。

「一夫さん、わしは商いをしている以上儲けはするよ。しかしお客さんに必ず満足していただくさ」

なんどか、このようなことを聞いたと、先生はしみじみと述懐した。

忠右ェ門のこの商売理念は、昔から輪島でいわれる『商品を売るより、人柄を買ってもらえ』というセオリーと、全く同意義をなすものである。

行商先での忠右ェ門のこまかい心配りを知る逸話がある。

「訪問しようとしている家の前にくると、子供の泣き声がする。ちょっと後にしようとその家の周囲を一回り、時計をみると正午に近い、これは昼時にかかるなと、また近所をひとまわり、時には同じ家を三回まわった」

いかにも忠右ェ門らしい。細かな気配りこそ行商の必修心得であった。

昭和三十年代のはじめまで、忠右ェ門の行商スタイルは変わらなかった。いつもセルの和服に角帯をしめ、黒足袋に高下駄という輪島塗師屋の伝統衣装であった。そしていつも背中には、商品見本を包んだ大きな風呂敷があった。

前出の遠藤先生がまだ子供の頃、忠右ェ門がその恰好で家に来ると「輪島の大風呂敷のおじさんが来た」と、言ったそうだ。

「人の前であぐらをかいたのを見たことがない。旦那は行儀のいい人でした」

と、かつて稲忠の大番頭として忠右ェ門の手足となった柳滋さんの話である。

長い旅の生活には、男であればふと遊び心がおきても不思議はない筈だが、忠右ェ門は潔癖なほど品行方正で通した。

昭和二十八年、輪島高校を卒業した長女のとし子(現専務取締役)は、その後一年間、三重県の宇治山田の洋裁学校に通った。休日には近くの父の場所先を回り、集金などをして手伝った。

忠右ェ門が場所先の拠点としていた常宿に、浜島の常勢楼があった。

「あなたのお父さんほど行儀のいい人はおりませんわ。いつも単身で私どもの旅館に泊まっているけれど、遊びに出たのをみたことがありません。浮いた話ひとつ聞いたことがないのです。うちの人が『稲垣さんはほんとうに男なんだろうか』と、ある日一緒に風呂に入ったら、立派な男であるのがわかったそうよ」

そこの女将が笑いながら話してくれたという。

旅先の旅館では必ず酒を一本注文した。実際にはほとんど酒は飲めなかった。いや飲まなかったのである。若いときから柔道や相撲で鍛えた忠右ェ門は、飲めばいくらでも飲める身体であったが、それをしたら、旅商いとして終わりだと考えていた。お得意さまの印象が悪くなることは厳に慎んだ。賭事が好きな塗師屋は、きまってお得意が離れることを輪島の塗師屋仲間から、耳にタコができるほど聞かされていた。酒にだらしのない男という印象をもたれても、商売に影響をしたものである。

忠右ェ門が必ず酒を一本だけ注文したのには理由がある。輪島の塗師屋はケチだと思われないように、という配慮からであった。女中が退室すると部屋の窓を開けて、そっと酒を流した。全く飲めないのに注文していると思われても具合が悪かった。

場所先で泊まる旅館には、しばしば若い未亡人と思われる仲居がよくいた。世の中いろいろ、人生さまざまの縮図のような水商売の世界である。

中年になっていたが、忠右ェ門はこのような女性達から、注目される男性だったようだ。若い頃からなかなかの男前であった。三河の旧家の生まれ育ちが、なりは行商人の姿でも、どこか他の商人とは違った気品のようなものを持ち合わせていた。

何人かのわけありの女性から、言いよられたこともあった。女性の方からみれば、きっとこの人は輪島で羽振りをきかせている商人にちがいない、と思う節があったようだ。そんな時にいう忠右ェ門のせりふは決まっていた。

「俺もあんたのような若くてきれいな女性と一緒になれれば幸せだが、輪島には一ダースの子供がいるのでなあ」

どの女性もそれ以上忠右ェ門に近づくことはなかった。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年