3章・苦闘の時代 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 18:00

戦時体制に入って輪島塗業界も受難の時代を迎えていた。肝心かなめの漆が軍の統制下にあり、ほとんどの塗師屋は開店休業という状態に追いやられていた。漆が入手できない輪島の町は、火の消えたようなものであった。若い職人は次から次と招集されて戦地に赴いた。

戦局は逆転し日々不利な状況に追い込まれていた。昭和十七年六月、中部太平洋のミッドウエー海域で、日米の主力艦隊が激突した。ここで日本軍は決定的な敗北を喫し、以後の制空権と制海権を奪われたのである。以後各地の戦闘では不利な戦いを余儀なくした。十八年の五月にはアリューシャン列島の西端アッツ島で孤立無援の日本軍が玉砕という悲報が大本営から発表され、輪島の地にも日本苦戦の空気がいろ濃く伝わっていた。

忠右ェ門は夜光会社にひととき働いていた。夜光塗料で航空機の計器目盛りを塗る軍需会社であった。細筆で夜光塗料を用い、精巧な目盛りを刻み付けるこの仕事は、蒔絵職人の技術をわずかながらも保持することができた。

漆は軍の統制のもとに軍需会社に配給されるのみとなっていた。

竹園自耕や広井清一らによって、昭和十八年に輪島軍刀会社が設立された。

軍から漆を確保することによって、漆器職人をつなぎとめ、輪島塗の技術保存を図ることに主旨があった。将校用の日本刀の鞘に漆塗りを施すというものであった。

そんなある日、夜光会社から帰ってきた忠右ェ門が、一息ついてから話した。

「キクエや俺は目も悪くなったし、夜光会社は無理だ。それにこうしていては塗師屋としてやっていけなくなる。塗師屋ならどんなことをしてでも漆を確保しなければ駄目だ」

昭和十九年に入り、忠右ェ門は久保田興四松、牛腸新三郎、門木長作、木浦乙松、九尾清太郎、高出次郎一らと、輪島軍需水筒製作株式会社を創立した。稲垣忠右ェ門が社長となった。

漆は群から支給され、社員は多い時には四十二名を数えた。当時の収支予算書を見ると、半年間に六万個の水筒を製作し、一個十二円で買いあげて貰う計画になっている。

十九年の暮れには米国のB29爆撃機がはじめて東京を襲った。東京大空襲の始まりであった。翌年三月には東京、大阪、名古屋とB29が無差別的に爆撃を敢行、大都会を混乱に陥れた。二十年六月には沖縄の日本軍が全滅し、八月には悪夢のような、あの原爆が広島と長崎に落とされ、終戦の幕が引かれた。

天皇目らが録音した終戦玉音放送が、正午のラジオを通して流れるのを忠右ェ門も聞いていた。一年たたずで水筒もおわったか、忠右ェ門は独り言をつぶやいた。

短期間であったが、水筒会社を設立したことにより職人が少しでも輪島に残った。軍刀会社と軍需水筒会社があったため、輪島の町から漆の灯が消えなかった。戦地に赴き、お国のために死んでいった人も数多くいたが、俺は俺なりにこの地でやれることをやった。この先どうなるか全くわからない。

虚しさを噛みしめて、忠右ェ門は夏の空を見上げていた。

昭和二十年九月十二日付で、輪島軍需水筒製作株式会社から、平和産業としての輪島漆器水筒株式会社と社名を変更した。開店休業の状態であったが、輪島にも駐留していた進駐軍の兵士が漆器を欲しがり、ときには色々な生活必需品と換えたりした。

「軍需水筒会社を起こして、塗りと木地の職人を地元に残し、輪島塗の技術継承を図ったことは、稲垣忠右ェ門さんの生涯の仕事の中で特筆すべきことだと思う。軍刀会社と水筒会社がなかったら、かなり戦後の漆器産業の復興は遅れていたとおもう」

戦後から昭和五十年代の終わりまで稲忠に勤め、大番頭として稲忠に貢献してきた

柳滋さんは、輪島塗を戦後に繋いだことの意義を重視している。

昭和二十二年の八月から稲忠漆器製造株式会社と改名し、戦後の復興をみながら輪器の浮上の機会を待った。軍需水筒から漆器水筒会社になっても男女十八名の社員をかかえ、支払い経費に追われて懐具合は火の車であった。だが忠右ェ門は必ず輪島漆器再興の時が来るものと確信し、諦めなかった。水筒の製作に必要なろくろや丸鋸のほかに、新たにろくろを三台買い入れたのも、そんな思いからであった。

「父が一番苦しかった時代が、戦後から昭和二十八年頃まででした」

長女のとし子専務は当時を思い起こして言う。

水筒会社の組織をそのまま引きずって、稲忠漆器製造株式会社が運営されていた。漆器の製造販売がはかどらない上に、経費は増大するばかりであった。

疲労が重なり尿に血が混じった。体調のおもわしくない日が多かった。精一杯働いたが、いっこうに業績はあがらなかった。予断をゆるさない会社経営が続いた。

昭和二十二年に新憲法が制定され、それにもとずく商工業協同組合法により、商工業協同組合が結成された。戦後の漆器復興の空気は徐々に高まってきたが、まだ漆が思うように手に入らなかった。昭和二十五年になって統制が解除されたが、業界全体ではここ十年の間に、多くの職人が輪島塗の仕事から離れていたこともあり、復興は思わしくなかった。

苦しいながらも忠右ェ門は、今ここを乗り越えれば新しい輪島塗の夜明けがくるの

ではないかと、一筋の光をみていた。

昭和二十四年に商号を株式会社稲忠漆器店と変えて、戦後の再スタートを図った。

忠右ェ門はもっぱら、三重県の志摩半島を中心に場所まわりをした。そこは養殖真珠で世界に販路を拡大した御木本幸吉ゆかりの地だ。真珠を扱っている旦那衆を丹念に訪問し、輪島塗の仏壇・宗和膳をおもに納めさせて貰った。真珠景気が忠右ェ門の戦後復興の追い風となった。だが相変わらず資金繰りに苦労する連日であった。

二十三年の十一月二十五日、五人目の子供、民夫(二代目現社長)が誕生した。

会社の経営がもっとも苦しい時であった。

あいかわらず血尿がまじって忠右ェ門は体調を崩していた。疲労は極度に達していたが、場所を一回りしなければならなかった。正月も目の前に迫っていた。

「父の代わりに私が鳥羽、岡崎、下呂温泉に集金に回りました。中学三年の冬休みでした。セーラー服のまま夜行列車に乗りこみました。その時のことは一生忘れることはないでしょう。金沢、草津、亀山などで乗り換え、鳥羽に先ず行きました。そこで当時三重県の県会議長をしていた松涛館のご主人様の石原鍋治さんから『一人でよく来たね』と千円のお駄賃を戴きました。今のお金でいえば数万円にもなるんです。下呂の水明館さんでは、大奥様がまるで家族とおなじような扱いをしてくださいました。映画を見に連れてってくださったり、食事を一緒にしてくださったり、どこへ行っても、よく来たよく来たと労ってくださいました。その時、つくづく商売っていいものだなと思いました」

と、四十年前の懐かしい思い出として、稲垣とし子専務が語る。

稲忠の経営がすこし落ち着いたのは、昭和二十八年頃になってからである。

真珠財閥のお得意さんを中心に、忠右ェ門が懸命に行商をした結果であった。

忠右ェ門にとっては死にもの狂いの時代であった。前出の柳滋さんはその頃、営業を担当していた。

「その苦しかった時代の頃ですが、こんなこともありましたよ。いわゆる片道切符ですよ。集金が出来なければ帰ってこられない、というやつです。うちも苦しかったんですね。でも幸いなことに集金ができましたので、さっそく電信為替で送りました。あの頃は毎目が細わたりのような時代だったんでしょう」


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年