2021/10/10 17:58
三重県と岐阜県を四十五日から六十日ほど回って輪島へ帰り、もろもろの手配や払いをすませて、一週間の後には再び旅に出ていった。
「主人はとにかく働くことを惜しまぬ人でした。もどってきても、一日中駆け回って次の仕事の対応をきちんと済ませました。たんぼ小路で買った家は外に障子が一枚入っているほかは、ふすまも畳も全く無かったんです。場所を一帰りしては襖を四数入れ、次ぎの旅から戻ると障子を八枚入れるというふうにして、家の造作を整えていきました。
主人は夜中に障子を張り替えて、朝暗がりから旅にでかけたものです」
キクエ夫人の語る記憶は昨日の出来事のようだ。
「稲垣さん、私は一度輪島へぜひ出掛けて、あなたのところにもお邪魔したい」
ある時、お得意さまからそんな話が舞い込んだ。忠右ェ門はびっくりした。
旅先ではいつも落ち着き払った物腰で、お得意さまの前にいた。塗師屋はそうでなければ商いができなかった。たまたま近くまで他用で旅行にきた時も『ご挨拶だけでも』と得意先に立ち寄る際は、無理しても高級な旅館に泊まり、そこの名前の入った浴衣を着て行ったものである。輪島の塗師屋はなかなかいい生活をしているな、裕福なんだな、と先方に思わす必要があったのである。
そのお得意さまも、忠右ェ門が輪島にあって羽振りがきき、結構な生活をしていると思っているにちがいない。忠右ェ門は少々うろたえた。
とにかく玄関に立派な看板を立てようと、まず看板屋をよんで厚い白木の看板を掲げた。中に入れる製品はほとんどなかったが、外に空箱を沢山積みあげた。漆器もできるだけ目につくような位置においてみた。なんとかこれなら、少しは商売が繁盛しているように見えるだろう。こうしてみると満更でもないなと忠右ェ門は苦笑した。
数日かかり、それなりに迎えの準備ができたところで、そのお得意様から「残念だ
が輪島に行けなくなった」と連絡が入った。俄づくりでもせっかくここまで支度したのにと思う反面、ホッと胸をなでおろす忠右ェ門夫妻であった。
塗師屋をしていれば、こんな些細なことでも気をつかうことが多かった。
*
日本は引き返すことのできない状態にまで、戦争の深みにはまりこんでいた。
中国との全面戦争拡大とともに、国内も緊張が増していた。昭和十三年には国家総動員法が議会を通過して、政府の統制力をつよめた。
この年の秋には金の使用が制限され、輪島漆器業界の死活問題にさえなりかねない状態となった。また昭和十五年には、忠右ェ門も加盟していた輪島漆器同業組合が解散させられ、あらたに輪島漆器工業組合が誕生した。
漆の入手が困難になってきた。昭和十六年に太平洋戦争が勃発する頃には、ますます漆の入手が難しくなっていた。塗師屋の間に漆の配分について、紛糾することもしばしばおきた。
これでは塗師屋もやっていけなくなりそうだ。忠右ェ門の胸中にかすかな翳りが走った。世界中が戦火に巻き込まれつつあった。昭和十四年九月に英仏がドイツに宣戦を布告して第二次世界大戦が勃発した。十五年の一月には日米通商条約が失効して、友好の糸がぷっつり切れた。ヨーロッパの西部戦線ではヒトラーがひきいるドイツ軍が連合軍を圧倒した。六月に入ってさらにドイツ軍の攻勢がつよまり、フランス政府はパリを逃れて都落ちし、ドイツ軍は凱旋門からシャンゼリゼー通りを凱旋行進する勢いであった。直後当時ロンドンに亡命していたフランスの将軍ド・ゴールが、イギリスのBBC放送を通じて、歴史に残る呼びかけを行ったのがこの時である。
「立て!フランスの兵士たちよ」
日本では八月にゼロ戦(零式艦上戦闘機)が登場し中国戦線に進出、破竹の勢いで中国軍を圧倒、九月には日・独・伊三国同盟が調印された。風雲急をつげていた。
そんな中、国内では日本書記に記載された神武天皇の即位から数えて、二千六百年にあたることを記念して、紀元二千六百年祝賀式典が皇居前広場で盛大に催された。
この祝賀の祭典は各地でも繰り広げられ、まるでお祭り気分で国威を煽った。
そして十二月七日には真珠湾を日本海軍が奇襲し、米英両国と戦闘状態に入った。
国が困窮状態にある中で、紀元二千六百年の記念式典が挙行され、付随して各地でもろもろの協賛事業が展開されたのである。
岐阜県の飛騨古川町の殿町というところから、祭礼屋台の塗装依頼がきた。紀元二千六百年事業として『青龍台』の大改修を実施する事が決められていた。
国の重要無形文化財の指定を受けている古川まつりで用いる古川屋台は、高山屋台とともに「動く陽明門」としてよく知られている。四月二十日には今も古川っ子自慢の九台の翻棚豪華な屋台が春風にのって町中を巡行する。殿町の青龍台はかって文化年間(一八〇四〜)に高山で黄鶴台として用いられていたものを、天保六年(一八三五)に殿町組が譲り受け、玄翁台と改名して曳きだしてきた。安政六年(一八五九)に大改修を行い青龍台と改名、以後昭和十四年にいたるまで、毎年例大祭に参加してきた由緒ある屋台であった。
この屋台がひどく老朽し損傷が著しいということで、十二年の四月の殿町区内全員
協議会で、二千六百年記念事業として大改築することを決定した。
屋台は総檜造り、飛騨匠型神明造り、源氏型四つ車と決定し、十二年七月に起工式が行われた。大工棟梁には地元の中村房吉、彫刻は富山県井波町の岡部圭秀、獅子は高山の本母芳之助、学装は石川県輪島の稲垣忠右ェ門、見送り天拝の龍の図は京都の堂本印象という人々が係わった。あしかけ四年を費やして青龍台はみごと完成した。
新調といっていいほどの大改築造営であった。
忠右ェ門に塗装の声がかかったのは、長年この飛騨地方を旅先として、各地の料亭や旅館などに輪島漆器を納めていたことによるもので、飛興地方での輪島塗師屋としての稲垣忠右ェ門が高い評価をあたえられていたことがわかる。今もこの地方の旅館や料亭では、忠右ェ門が精魂こめて塗りあげた漆器を用いているところが多い。
日本でも著名な下呂温泉の水明館や高山の洲さきは、今も稲忠の数十年来のお得意先である。
輪島では漆が統制品目となり、ほとんど漆器製造の仕事がなくなりかけていた。
忠右ェ門は青龍台の塗装請負にもてる力を傾注した。殿町町内に八坪ほどの仮設作業場を設け、昭和十六年の五月より十二月までの八ヶ月間、六人の職人を出張させて仕事にあたった。宿は近くの八ッ三館にお世話になった。
忠ェ門は屋台の仕事の激郷をみながら、付近の場所をまわっては輪島との間を頻繁に往復した。輪島の工房では数少い職人が残り、古川町の現場ではできない青龍台の部品の漆塗装を行った。屋台改修の一部とはいえ、一品では稲垣忠右ェ門一代の最大の仕事であり、永年飛騨でしごとをしてきた集大成であった。また面目もあった。
青龍台の大きな屋根が輪島へ運びこまれた十六年の秋、現在、稲忠漆芸堂の専務取締役をつとめる稲垣とし子はまだ小学生であった。
「こどもの目からみれば、家みたいな大きな屋根を、職人さんらが塗っていたのをよく覚えています。それが青龍台の屋根とはもちろん当時は知りませんでした」
損得を度外視してのしごとであった。当時、塗装部分の一部に沈金や象眼を施した久手川力造(号は流石)さんが、今もご健勝で山中町に住んでおられる。
久手川さんは忠右ェ門と同じ明治三十六年の生まれで、戦後輪島では全く沈金の仕事がなくなったため、山中に移られ昭和五十年代まで仕事をしていた。
昭和十二年頃から戦争が終わるころまで、稲忠で働いていた久手川さんは、戦前の仕事場の空気を知る、数すくない貴重なお方である。
「旦那さんはいつも静かなお方でした。私達の前で怒った顔など一度もみせたことはありません。仕事も指示だけきちんとして、あとは職人にまかせていたので、逆に私らは責任を感じたものです。当時私は二階の仕事場に御飯をおひつごと持ち込んで、子供をつれて来ていました。キクエ奥さんが子供と遊んでくれたり、昼にはお汁やおかずを用意してくれました。いいお方でした。今も感謝していますよ」
八十六歳になられる柔和なお顔の久手川さんの目がしばたいた。
「一度だけ旦那さんが私に、一緒に場所まわりに行かないかと言われて尻込みしたことがありました。私は手の方は動いても、口の方はからきし苦手だったので、いったんは断ったのですが、わしと一緒だからなんも心配する必要がないと、再度促されたこともあり、出掛けてきました。三重県内の旅館、料亭を中心にまわったのですが、旦那の商いの上手なのにはただただ感心しました」
久手川さんの口から、旅先の忠右ェ門のお得意さんに対する対応ぶりが、手にとるように語られた。
「ある旅館で二枚足の塗膳を出して商談をしていたところ、そこの女将の前で突然旦那があの大きな体で膳の上に乗ったんですよ。『女将さん、こうしてもびくともしないのが、輪易塗ですよ』と言ったものだから、へーえ、と女将が感心して買ってくれたんです。私もそばにいてびっくりしましたよ。それから、旦那のかたり口は、どこへ行っても優しく、笑みをうかべながら静かに語っていましたので、説得力がありました。初めて訪問した旅館では、まだ間に合っている、と断られる場合が多かったのですが、そんな調子で先方さんと話をしているうちに、結果的には旦那さんは修理品の一つも頂いてきました。修理品をもらえば次には必ず新規の注文がもらえるものだと、旦那は言ってましたよ」
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古川町殿町の青龍台がみごとな変身をとげ、祭礼に曳き出されたのは第二次世界大戦で日本が劣勢になりかけていた昭和十八年のことである。ちなみに全支出の経費は当時のお金で、二万五千八百円であったという。当時の一日の人夫賃が一人三円の時代であったから、町の人々の大改修への意気込みがたいへんなものであったことが窺える。
忠右ェ門の死後、やがて十年になろうという昭和六十三年の十二月、稲忠漆芸堂の社員研修慰安旅行で百三十名の稲垣家の家族と社員が古川町の殿町を訪ねた。十六日の午後、雪のふりしきる中、青龍台保存会の広元久一会長や藤沢治夫さんら町内有志のみなさんが屋台蔵を開いて待っていてくれた。祭礼以外には見ることのできない青龍合を、蔵まで開けて準備してくれた殿町の皆さんの心意気に感謝しながら、忠右ェ門の塗った屋台を拝見させていただいた。
ふりしきる雪の中にみごとな漆黒と金箔が燦然と蔵の中でかがやいていた。キクエ夫人をはじめ民夫社長・とし子専務にしてみれば、まさに主人や父親の分身との対面であった。
忠右ェ門は古川町殿町の屋台蔵の中に生きていた。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して