2021/10/10 17:57
「兄はいつも苦労していましたが、幸運をよびこむ人でもありました。兄がやりくりに大変困っている時に、資金面で援助してくれた方がいるんですよ。岩津のおてつさんという人です」
妹のきよさんが優しい目を細めて話してくれた。
輪島でどうしても塗師屋としての拠点を持ちたい。さいわい譲ってもいいという、手頃な不動産物件の話が忠右ェ門にきていたのである。
忠右ェ門は愛知県岡崎市の岩津天満宮近くにある、なじみの岩津温泉伊藤館を訪れていた。伊藤館には藩政年間末期生まれの名物女将おてつさんがいた。女だてらに、男顔負けの、度胸の座った、などといわれた女傑で、界隈で知らぬものがいないほど有名な人であった。岩津の「おてつさん」と人々はよんだ。時の町長や議員先生なども、このおてつさんには頭が上がらなかったというほどの、俠客肌の女将であった。
今は岡崎市に合併されているが、かってここは岩津町の社交場であった。伊藤館をはじめ料亭をかねた主な旅館が三軒ほどあり、三味線の音に芸者の声がまじり、夜おそくまで賑わったところである。
「巴ちゃん、これをもってきな」
おてつさんが、ポンと五千円をこともなげに忠右ェ門の前にさし出した。忠右ェ門が数年前に改名しても、おてつさんは以前と変わらず「巴ちゃん」とよんでいた。
「あんた、だいぶ苦労しているようだね。兎年だったね。どおりで目が真っ赤だよ」
と、おてつさんは忠右ェ門を激励した。たしかにうさぎ年であった。
忠右ェ門は子供の頃からおてつさんを知っていた。父の隆三郎は忠右ェ門が生まれた枡塚に移る以前は、この岩津で医院を開業していた。医者ではあったが、父はおおらかな俗人でもあった。明治の時代に医学や地理学の研鑚のために、長い間アメリカにわたって生活した父は、ものにこだわらぬ性格もあって、地域の名士らとよく伊藤館で飲み食い語り、おおいに遊んでいたようだ。話題にはことかかぬ人であった。
「わしの病院を売ったらいくらになるのかな」
酔うとよく、冗談とも本音ともつかぬことを言った。
水商売といわれた時代の旅館の女将にしてみれば、隆三郎のような人はもっとも大事なお得意さんであった。まして隆三郎のように素封家の生まれで、外国帰りの医者となればなおさらであった。
おてつさんには「かね」という妹がいた。水商売の世界に身をおいていたが、大変気立ての優しい人であった。隆三郎は忠右ェ門らの母親のもとが死んだあと、後妻にときをむかえたが、ときも若くして他界してしまった。
父隆三郎がそのあと交際し、老年になって無医村の佐久島へ赴任したとき一緒に渡って生活をし、身のわまりの世話をしたのが「おかね」さんであった。
「義母がなくなったあと、父は岩津にいたおかねさんと交際していたのでしょう。兄の忠右ェ門も私も、おかねさんには好意をよせていました。父が犬をつれておかねさんのところへ行くと、しばらくすると犬だけがもどってきました。犬の首にはおかねさんの心くばりの菓子袋がついていたんです。よくそういうことがありました」
きよさんは幼少の頃を思い出して語ってくれた。
五千円を前に忠右ェ門は茫然とした。伊藤館にはいままでも輪島塗を沢山買ってもらっていた。自分の資金繰りが悪いと「女将さん!どうしてもこれをお求め頂きたいてすが⋯⋯」というと、今すぐに必要という品物でなくも「わかったよ」とおてつさんは買ってくれた。忠右ェ門の父隆三郎先生には自分の妹が世話になった。その先生の息子さんが、遠い能登の輪島で慣れない仕事で苦労しているということを、おてつさんは知っていた。
その日、忠右ェ門はたまたま場所まわりの途中に伊藤館に寄ったのである。
幸運とはこういうことなのであろう。もし忠右ェ門の目の色が赤くなかったら、この話は無かったにちがいない。目の色で、忠右ェ門の近況を看破したおてつさんの洞察力は、日頃人相手の商いに生きてきた女将ならではの読心術であった。
忠右ェ門はこの恩を死ぬまで忘れなかった。忠右ェ門にとっておてつさんは、命の恩人といえる人であった。
現在創業百七十年になる伊藤館は、おてつさんから四代目にあたる若主人が、三代目の尊母とともに、今もはつらつとご商売に励んでいらっしゃる。二代目の徳太郎氏にも忠右ェ門は贔屓にしてもらった。いまも伊藤館には忠右ェ門が納めた輪島塗が数多く残っている。使いこんで布着せのあらわれた飯櫃を拝見させていただいた時に、忠右ェ門と伊藤館との交流の深さをあらためて知った思いがした。
おてつさんとの事には後日談が幾つもあるが、その一部をここに紹介してみる。
五千円という大金(昭和の初期)を返せなかった時はどうしよう。忠なる人の万が一の心配ごとであった。いくつかの保険会社をまわったら『自殺保険』というのがあった。忠右ェ門は救われたと思った。さっそく保険に入って証書をおてつさんに預けに岩津へ行った。
「巴ちゃん、なんのまねだね」
と、おてつさんは証書を突っかえした。そういう人であった。とにかく五千円という大金を融通しておいて、証文ひとつとらない人であった。商売が軌道に乗った時にでも返済してくれればいい、貸してくれたのであった。
しかし忠右ェ門にしてみれば、そうそう甘えているわけにはいかなかった。
一 方、おてつさんでは忠右ェ門が自殺保険に入ってまで、万一の場合の返済をしようとする人間であることを見抜いて、証文一つとらなかったのであろう。
一年経った。忠右ェ門は借金の返済に、地元で借金をしておてつさんのところを訪ねた。商売はまだまだ順調というにはほど遠い状態であったが、とにかく一年お借りしたものを返さねば気が済まなかった。だが、またまたここでおてつさんに、五千円を突っかえされた。
「巴ちゃん、輪島での商いはまだまだのようだね。あんたの目は睡眠をとっていない兎の目だよ。身体を大事にしなければいけないよ」
なにもかも、お見通しのおてつさんであった。世の中にはこういう人がいるんだなあ、と忠右ェ門はおてつさんの器量の広さにあきれる思いであった。
昭和三十四年九月二十六日の夜に襲った伊勢湾台風は、戦後の台風でもっとも傷あとを深く残した台風である。愛知県を中心に全国に大きな被害を与えた。もっとも被害のおおきかったのは、愛知三重の両県で忠右ェ門の旅先であった。どの家も大なり小なりの被害がおきた。
忠右ェ門はさっそく親戚や大事なお得意様にお見舞いの書状と米を送った。伊藤館にもお米が届けられた。
二代目の徳太郎さんは、さっそく神棚にお米を奉って神妙に柏手を打ち、忠右ェ門の心づかいに涙を流して感謝したという。稲垣忠右ェ門という人の徳であった。忠右ェ門にしてみれば、当たり前のことをしただけであった。
因果応報とは、このことをいうのであろうか。
後に稲忠漆芸堂の本店となる、たんぼ小路の百数坪の家屋敷と、塗師屋として不可決な支度を整えるのに、おてつさんから借りた五千円が活かされた。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して