2-7 かけだし時代 | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 17:55

「心細いことはなかった、といえば嘘になりますよ。とにかく右も左もわからない輪島の町で、わたしのような何もしらないものが、塗師屋の嫁としてやっていかなければならなかったのですから。主人は一ヶ月から長い時は二ヶ月のあいだ、場所まわり

の旅にでて、戻ってきても一週間で、また旅にでました」

キクエ夫人は旅先からの手紙を読んで、品物を手配したり職人に仕事を依頼をした。

忠右ェ門は筆まめな人であった。旅の宿ではもちろんのこと汽車の中でも、待合室にいても、昼飯をとった食堂からも手紙を書いては出した。場所まわり中、荷物に必ず封筒、はがき、切手を持ち歩いていた。

さいわい漆器業界は一時的ではあるが好景気に向かっていた。

昭和八〜九年、インフレの波に乗って久し振り輪島の漆器業界に活気が戻った。

昭和十年になると、しばしば地元の新聞紙上で輪島漆器の好況が伝えられた。

この頃、輪島漆器の販路は日本国内はもとより、朝鮮、台湾、樺太、南洋、満州、

支那にまで移出していた。輪島塗師屋のたくましい商いの足跡であった。

出荷先では東京が一番多く、愛知、福岡、大阪、山口、兵庫、北海道、京都、石川という順で、海外では朝鮮、満州、樺太、台湾、支那の順位となっていた。

忠右ェ門の主な旅先は三重県の津や松阪の周辺と、岐阜県の下呂温泉、高山、平湯温泉などであった。

三重県の津では料亭の生月、瓢亭、浜作。桑名では大正館、また松阪では松阪牛で世界に名高い和田金が、古くから懇意にお付きあいをして下さった。二見ケ浦の大石屋旅館も忠右ェ門の漆器を扱ってくれた。長いお付き合いである。

岐阜県では下呂温泉の水明館、山形屋、望川館、奥田屋などの旅館が、高山では洲さき、角正などの料亭が主な得意先であった。

下呂温泉の水明館、高山の洲さき、松阪の和田金という超一流のお店が、今も稲忠

の漆器をご利用いただいているのだから、もう五十数年来のお付き合いということになる。

 輪島では漆器の納品単位を櫃(ひつ)数でよんだ。昭和十一年に輪島から送った三重県への数は二七四個、岐阜県へは二三九個であった。そのうちのかなりの数を忠右ェ門が送っていた。

昭和十年という年は輪島の町にとっては記念すべき年であった。漆器業界も活況を呈し、七月の三十日には待ち望んだ七尾線の開通をみたのである。翌日の北国新聞の朝刊には一面トップの大見出しに『処女列車は出た!七尾線全通祝賀、祝福の歴史的開通式』と掲載され輪島住民のだれもが喜びに酔いしれた。

開通の朝はまだ暗いうちから人波でごったがえした。5時25分汽笛一声、七十七名の客を乗せた客車三輌貨車一輌の四輌編成の一番列車が、祝砲の花火があがるなかにゆっくりと始動した。見物にでかけた町民衆から一斉に万歳のこだまがあがった。

 

*

 

鉄道が開通する前の年、昭和九年に百数坪の家付の屋敷を買った。

忠右ェ門にしてみれば、塗師屋としてこの地で生きていくためには、どうしても家屋敷を目分のものにしておかなければならなかった。将来のことを考えればなおさらのことであった。

 「たんぼ小路というところに譲ってもらえる家がある」

と、近所の人の紹介があった。三千円で譲渡してくれるという話であった。

忠石ェ門にとっては大買物であった。どこにも資金はなかった。かけだしの塗師屋で、実績の少ない忠右ェ門に融資をしてくれる銀行はまだなかった。しかし、なんとしてもこの家屋敷だけは買わねばならなかった。

ここ二年半、妻のキクエと一緒に、数人の職人をかかえて塗師屋を営んできたが、生活して工賃や材料費を支払うのが精一杯というところであった。

忠右ェ門は朝早くから夜遅くまで働いた。働くことが趣味ではないかと思うほど、せっせと仕事に励んだ。旅商いが楽になる道理はなかった。キクエには二番目の子供が宿っていた。

うーん、どうしたものか。忠右ェ門は唸った。

思案をしても始まらなかった。家屋敷を三千円で買うだけでは済まなかった。塗師屋として少しでも多くの在庫をもち、手配を先行させるだけの資金も必要であった。この地に代々住みながら塗師屋を営む人とはちがって、すべて忠右ェ門は一からことをおこし、物を調達しなければならなかった。

家星敷を購入するのはやはり無理なようだ、と忠右ェ門は半ば諦めていた。実家の兄にはこのことで迷惑をかけるわけにはいかなかった。三河湾の佐久島で村医で赴任していた父は、昭和七年の春に他界していた。父の死に目にも会っていなかった。

 

*

 

人の幸運はどこにあるかわからない。

幸運が忠右ェ門に飛び込んできた。いや忠右ェ門が摑んだというべきであろう。

「一生に何度か人は幸運の女神に出会うものだ」

忠右ェ門は運命の不思議さを、大きな身体いっぱいに感じていた。

岡崎に近い、岩津町の旅館の長田てつという女将が、ポンと五千円という大金を融通してくれたのである。


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----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年