2021/10/10 17:54
「キクエや、ちょっと輪島まで旅行に行かないか」
年もあけた昭和七年の一月半ばのことである。前年の満州事変にひき続き、この月末には上海事変が起こり、日本をとりまく厳しい国際世論が高まりはじめていた。
忠右エ門とキクエの二人は、お互いにスーツケース一個づつを持つという旅装であった。新婚旅行が親戚回りだけだったので、はじめての旅行であった。キクエの気持ちは弾んでいた。それも、今の商人の仕入れ先でもある輪島へ行こうというのだから嬉しかった。三・四日あるいは一週間になるかもしれない、ということで出てきたのだが、主人の手助けをしなければならない身だから輪島の町はぜひ行ってみたかった。
穴水からいよいよ六里。自動車にのって輪島へ向かった。雪がちらついて寒い日だった。途中山合いの涸れ田の間の砂利みちを、ほこりをあげて自動車が走る時分になって、これは主人に騙されたのかもしれない、とキクエの脳裏をそんな不安の影が走った。
車の窓からは寒々とした低い山々が、単調に走っては消えるだけであった。時折、人家らしいものが見えた。この奥に本当に輪島の町があるんだろうか。窓を走る景色でさえ、キクエに不安感をもたせていた。忠右エ門はいつも見慣れた風景だと、おどろいている様子もなかった。
輪島についた。朝市の立つ本町通りにある宿に旅装を解いた。キクエはかなり疲れていた。町中はそれでも途中に走ってきた所に比べると、ずっと賑やかであった。
どこへも出掛けたことのないキクエには、北国の輪島の町は西も東もわからない未知の国であった。すべて主人まかせと思っていた。
その主人忠右エ門は、翌朝からしごとの打ち合わせだと言い宿を出ていった。なかなか帰ってこなかった。心細さが襲った。宿の前の通りでは、毎朝近在の漁師や百姓の主婦らが直接地面に魚や野菜を並べて、白い息を吐きながら、威勢のいい声で買い物客に声をかけていた。漆器の町は市のたつ町でもあった。
忠右エ門はいっこうに落ち着く暇もなく、仕事の打ち合わせで取引先の漆器店に足しげく通っていた。三日、五日、一週間が経過した。宿にきてから十日目を迎えた。
「キクエや、このまま、しばらく輪島に住んでみることにしよう」
輪島にきてから、日が経つほどに、ひょっとしたらと思っていたことが今、主人の口から聞かされたのである。主人が輪島漆器の仕事にいのちをかけようとしていることは、キクエも充分理解していたつもりであった。
「あなたの言う通りにします」
悔も残るような気がしたが、きっぱりと言った。
キクエは輪島に逗留する覚悟をした。辛かったが、主人もここで賭をするのだ。
後の稲忠があるのは、誰ひとり知る人もいない町で、それも予期しない突然の逗留に同意した、キクェ夫人の決断があったことを見逃すことはできない。
その時の心中を思えば、何人たりとも目頭があつくなる。
稲垣忠右ェ門の並々ならぬ輪島漆器への愛着と、その主人の仕事に対する妻キクエのひたむきな愛が、後の稲忠漆芸堂の基盤をつくったのである。
経費もかさむからと、さっそく旅館から近くの貸し部屋に居住先を移した。
「しばらくの逗留予定が、そのあと子供も生まれたりして、とうとう七年七月の間、郷里にも行かずしまいでした」
キクエ夫人は笑って当時の事を語る。
昭和八年六月十五日に長女とし子が誕生した。その間大町にある一軒屋を借りて住まった。職人も世話をしてくれる人がいて、何人か来ていただくことになった。
ようやく稲垣忠右ェ門は輪島の塗師屋となった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して