2-5 忠右エ門を名乗る | 輪島塗の稲忠

2021/10/10 17:53

輪島漆器の外商に出るようになってから、困ることが生じた。高級な漆器を商う者は、外見も中身も立派な人間に得意先から見られなければならなかった。

 昔から輪島では『輪島塗は品物を売るのではなく、人柄を買ってもらうものだ』と言いつがれてきた。そのとおりであった。また『人柄を買ってくれれば半分売れたも同然』ともいわれた。

 商いの要領を端的にいい表した金言である。

 巴はもともと服装は地味好みであり、行動もゆったりしていたため、お得意さまからは年齢以上にみられた。身なりひとつとってみても、大切な要件であった。

名前さえも漆器の行商人には大きな影響をもった。まして輪島出身ではない巴にとっては、どうでもいいでは済まされなかった。

『輪島塗・稲垣巴』では箔がつかなかった。なにか軽々しい感じがした。もっと輪島塗を扱っているのに相応しい、歴史的なひびきを持つ名前が欲しかった。

『巴』という名前は隆三郎がアメリカ滞在中にフランス旅行に行った際に、パリに寄って記念の意味もこめられてつけられた名前であると聞かされていた。親がつけてくれた名前に別に不足があるわけではなかったが、輪島塗とパリではどうも不似合いであった。

 昭和五年ごろから「忠右エ門」と場所先では名乗るようにした。『忠』という字が巴は以前から好きであった。忠義という意味ではなく、心に偽りがない、真心をつくして努めをはたすこと、という意味での『忠』にひかれていた。

寛永年間に七十八歳で死んだ稲垣家の初代、惣右エ門の甥に「忠右エ門」がいた。

 巴はこの名前に固執した。

 通称や自称ではこの先ながい塗商の道を歩み続けることができない。法律的にも改名しようと巴は決意した。二度三度当局に通い名前の変更を申し出たが、意義を認めずということで否認された。これは厄介な事だと頭をかかえたが、郷里の上郷町上野の出身で、愛知県庁でかなりいいポストにいて、行政手続きに非常に明るい人がいると聞きさっそく相談にいった。

 困った時は身をおこせ、とはこのことであった。巴は思いたてば行動が早い人であった。

「稲垣医院の元先生の弟さんが力になって欲しいというならなりましょう。私から聞いたことにはしないでほしい」と前置きしながら助言をしてくれた。

「忠右エ門の名前はもう長いこと商売でつかってきて、輪島塗業界では忠右エ門で全てが通っているということで申請するといい」

 昭和六年七月十日、巴は正式に戸籍上も忠右エ門となった。名前ひとつでも輪島塗商人にとっては大切であることを、こだわり続け執着した人であった。

 忠右エ門の名前には、後年いろいろとエピソードが誕生した。

 今、ひとつだけ紹介しておきたい。

 明治の元勲西園寺公望や、真珠王の御木本幸吉などの主治医として、また東海地区医学界の大ボスと称された勝沼精蔵という人との関わりあいでのことである。

 忠右エ門が名大病院に入院していたことがある。その時に一度kの著名な医師が検診にきた。忠右エ門はよく覚えていたが、勝沼先生のほうでは忠右エ門のことを覚えていよう筈がなかった。

 その勝沼精蔵さんが昭和三十五年ごろに輪島にきて、稲忠漆器店(当時の名称)に立ち寄った。名刺には『NHK顧問』としか入っていなかった。だが、忠右エ門は医学界の大御所である勝沼先生であることを知っていた。

「ひょっとして、かの有名な勝沼先生ではありませんか」

「おや、私をしいているのですか」

「先生のお名前は、能登の輪島とて誰ひとり知らない人はいませんよ」

 これには勝沼御大も大感激したそうだ。だれもが自分の名を知っているとは思えなかったが、その忠右エ門の言葉が素直に嬉しかったのであろう。

 この話にはもう少し尾鰭がついた。

「稲垣忠右エ門さんは昔からここで漆器の商いをしているのかね」

「いえ、はい、ええ、もう私で八代目になります」

「すると創業は徳川のいつの時代になるのですか」

 忠右エ門の脇の下は汗ばんだ。とっさに言葉がでてこない。おもわず、

「はい、もうそれは長いようで短いようで・・・・・」

 額からもどっと汗が流れた。

「輪島塗はなんとも形容しがたい美しさがある。秘伝がおありなんでしょうな」

「おっしゃるとおり、私どもの技法は秘伝中の秘伝で、こればかりは天下の勝沼先生にも打ち明けることはできません」

 手に持った白いハンカチで、汗をふきふき忠右エ門は答弁した。

 後年、親族の通夜の会場でこの話を、甥で勲一等の褒賞をうけたこともある鈴木永二氏にその時のことを披瀝した。いつの日か勝沼先生に謝ろうと思っていると言うと

「いいじゃないですか。そうまでして輪島塗に同化したいという、稲垣さんの一念が八代目になったんですから」

 腹をかかえて鈴木氏は夜とぎの場所で大笑いしたという。名古屋市内で医院を開業しておられる遠藤一夫先生からこの話を伺った。先生は忠右エ門の妹きよさんの長男でいらっしゃる。


次へ 2-6輪島に移住し、塗師屋となる



----- 目次 -----

1章 故郷三河の稲垣家

 1-1 矢作川と稲垣家

 1-2 学問ひとすじ 祖父真郎

 1-3 人生謳歌、父隆三郎

 1-4 おいたち

 1-5 収蔵品の虫干し

 1-6 現代の稲垣家


2章 塗師屋への道

 2-1 クリーニング店に住み込み

 2-2 はじめて外商にでる

 2-3 輪島の地を踏む

 2-4 三重で漆器外商、そして結婚

 2-5 忠右エ門を名乗る

 2-6 輪島に移住し、塗師屋となる

 2-7 かけだし時代

 2-8 岩津のおてつさん

 2-9 飛騨古川町の青龍台を塗る


3章 苦闘の時代

 3-1 漆塗り軍需水筒で戦後につなぐ

 3-2 行商三昧

 3-3 能登観光の黎明と水害受難


4章 漆器組合の理事長に就任

 4-1 塗師屋の仲間組織

 4-2 火中の栗

 4-3 組合再建への礎に

 4-4 高松宮妃殿下を迎える


5章 漆器と観光の船出

 5-1 観光時代の到来

 5-2 カニ族のたまり場

 5-3 塚田海岸に進出、稲忠漆芸会館開設

 5-4 居眠り旦那と道路の稲忠さん


6章 逝去、子息らに夢を託して

 6-1 ボーリング場跡地を購入

 6-2 民夫社長を指名、会長になる

 6-3 七十四歳の誕生日

 6-4 病床でキリコ会館の開設を見る

 6-5 初秋に逝く

 6-6 没後十年、創業六十年