2021/10/10 17:51
汽車を乗り継ぎ、能登の七尾で下りた。もう日が暮れていた。七尾は能登一賑やかな町ときいていたが、今まで生活していた名古屋とは比較しようもない田舎にみえた。
明日はいよいよ輪島に入る日であった。
*
その年の始めに荒物問屋を退める決意をし、主人夫婦にその旨をつたえた巴は、転身のための準備を日常の仕事の合間に進めた。
問屋で外まわりをしているうちに、自らの進むべき道が見えてきたと思った。日を追うごとにその思いは固まっていた。<今が転機だ>と巴は確信した。
俺の仕事は輪島塗を商うことだ。どうしても輪島塗でなければならない。
ここ一年ほどの間に、漆器や陶器をけっこう扱った。とくに俺は漆器を扱うのがなぜか性にあった。だが苦い思いも味わった。そのほとんどは納品した商品に対する苦情であった。外商先で以前納めた商品の返品をされるほど辛いものはなかった。雑貨の類なら代替品を用意して丁重に詫びれば済んだが、高級漆器を称して売った品が不良返品された時などは、お得意様と自分の間にひんやりした空気がながれるのをとめようがなかった。自分を信用して買ってくれた家の主人が、その瞬間から自分を見る目違っていた。四、五十ヶ所もあるときいていた全国の漆器産地物のうち、巴が働いていた荒物問屋ではその四分の一か五分の一の種類しか扱っていたかった。そのなかに数は少なかったが輪島漆器があった。堅牢優美のふれこみ通り、価値ある漆器であった。値段はたしかに高額であったが、奥底から放つ漆光には一種独特の気品があった。その上なによりも堅牢であった。
本物の輪島塗を扱って苦情をもらったことは一度も無かった。それは巴ばかりではなく、同じ店で働いていた仲間の口からも、よく聞いていたことであった。
<輪島塗しかない>
巴の確信はゆるぎないものになっていた。
三ヶ月の間に金策をしなければならなかった。多少の蓄えはしたものの、自分で働いて貯めた金額はわずかであった。頼るべきは親族しかなかった。兄にここは頭を下げなければならないと思った。
父の隆三郎は年をとっていたが、持ち前のおおらかさを失うことなく、六十五歳を過ぎていたにもかかわらず、三河湾に浮かぶ佐久島に村医として島に渡っていた。金策は父に相談しても無理であることが判っていた。
兄に理解してもらえるだろうか。いやなんとしても判ってもらわねば、と巴はここはひたすら頼みこむしかないと腹をくくった。代々矢作流域の素封家として、また今は医者として地域住民の福祉医療に精力的に貢献している兄ではあったが、はたして独立して商いの道に入ろうとしている自分の決心を、どこまで判ってくれるだろうか。名古屋に住み込みで働いている間、近いところに実家がありながら俺はあまり顔を出すこともしなかった。
これは少してこずるなという予感がした。
「海のものとも山のものともわからない、それも輪島漆器を扱うなどとは・・・」
と案の定、兄は反対であった。輪島漆器を専門に扱うなんて、生半可なことではできやしない。それにもし商売が失敗したら大きな負債を抱えてしまうそぞ、という意見であった。
兄の心配はもっともであった。本心から心配してくれたのだが、巴にしてみれば、反対いうのでは納得がいかないという感情が先に立った。
同じ兄弟ではないか。自分はこの家から独立しようとしているのだ。兄もそれを望んでいる筈ではなかったのか。
巴の言い分であった。巴はひるまなかった。かなり強引に迫った。
兄の元にしてみれば弟のことが心底心配であった。弟が安定した仕事に就いてくれればいいと常々思っていたのが、その逆を行くような道を弟が選んだのである。かなり押し問答があった。
「私は賛成できないけれど、お前がそこまで言うのなら好きなようにしろ!」
その辺の経緯は、切れることなく親しく交流を続けている子息縁者の方々の、寸断的な印象から推測した域をこえることはできないが、そんな空気であった。
親族というものが、いかにいいものか。それを証明するやりとりであった。
兄から支度金を工面してもらい、姉夫婦からも貰った激励の餞別を胸にして、巴は待望の輪島の地へ向かった。
*
七尾の宿では寝つきが悪かった。明日の夕刻には踏んでいるにちがいない輪島の地を想起すると、急に目が醒めるのであった。すこし胸が高ぶっているな、と思った。
なかなか寝られないので、茶を飲みながら当地の新聞に目を通した。新聞に目をとおすのは習慣になっていた。外商に出るようになってから、新聞に一通り目を通しておかないと、お得意さまの前で恥をかくことがあったからである。
昭和四年四月も半ばになっていた。故郷の愛知ではもう一週間も前に桜が散ったのに、能登では見頃の七・八分咲きという花便りがでていた。また国産のウイスキーが初めて発売され、話題になっていうることも掲載されていた。
あたりの眺めもおだやかで、小高い山がゆるやかに連なりあっていた。
穴水で下船し徒歩で輪島をめざした。六里(24㌔)の道のりであった。道中は三井・河原田という山間地域の川沿いの道を歩いた。ところどころ桜の花が山の中腹や川のほとりにほころんでいたようだが、巴にはそれを鑑賞して歩く余裕などはまるでなかった。
とうとう輪島の町はずれまできた。日が西に傾いていた。花曇りではなく上空は重い雲がたれこめていた。
巴が初めて輪島の町に入った時の印象については、前出の妹のきよさんが、後年兄の忠右エ門の口から直接聞いたことがあると、明確に記憶していらっしゃった。
「はじめて見た輪島のまちは暗かった。ここでなら俺もなんとかやっていけそうな気がする」
稲垣忠右エ門、輪島入りの決意であった。
輪島には何軒か旅の商人に漆器を卸してくれる店があった。巴もそういう店があるとこを聞いていた。紹介状はもっていなかったが、いままで名古屋市内の荒物問屋に勤めて外商で漆器をあつかっていたことを話すと、店の主人はすぐ理解をしめしてくれた。店は柴田芳太郎商店であった。その後ながい間お世話になった柴田さんに対して、忠右エ門は生涯感謝の念を忘れることはなかった。
巴は仕入れ先がこれで確保できたと安堵した。店の主人に紹介された宿に荷をおいてから町なかを歩いた。外観ではことさら漆器の町という感じはなかった。
町外れに立つとわずかに潮のかおりが伝わってきた。
俺は輪島の地にいる。輪島塗の産地にこうして今まぎれもなく立っている。
<近い将来、きっとここで塗師屋を構えてみせる>
風が冷たくなってきたが、夕闇に立つ巴の胸中には熱い感慨がたぎっていた。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して