2021/10/10 17:44
忠右エ門は明治三十六年十一月九日に、愛知県碧海郡上郷村字枡塚(現在の豊田市上郷町枡塚)で、稲垣家十二代隆三郎の四男として生まれた。隆三郎四十三歳の時の子供であった。(余談になるが、忠右エ門が幼少にころ、俺の父親はなぜ年をとっているのかな、と感想をもらしたことがあるそうだが、同様に現二代目の稲垣民夫社長も忠右エ門四十五歳の時の子供であり、俺の父親は友達の親よりかなり年をとっているなぁと、感じたそうである)。母のもとは岡崎近くの岩津の出身。
その年は日本ではじめて神戸でゴルフ場が誕生、相撲界では常陸山・梅ケ谷の東西を二分する人気力士が同時に横綱昇進をはたし、野球界においては第一回の早慶戦が行われ、慶応が11対9でおさめるというスポーツ界では明るい話題が続いた。
また東京の市街地には『チンチン』電車の第一号が走り出し、大びん一本二十三銭のビアガーデンンが隅田川のほとりにオープンした年であった。
しかし国内の空気は緊迫していた。日露開戦が真近に迫り、東郷平八郎が連合艦隊司令長官に抜擢され、年末度には政府が緊急軍事費を調達するために、膨大な国債を乱発するという状況にあった。
父の隆三郎は医院を開業するかたわら、三千坪あまりの屋敷のなかに馬、犬、鶏、山羊などを飼い、池には鯉を放ち、屋敷のあちこちに果物の木を沢山植えていた。その多くは、明治時代に二度にわたって渡航滞在し、アメリカでの農村近代化の実体を見聞きしてきた反映であったようだ。
「おれは病人はきらいだ」
アメリカ仕込みの医者であり、近在の農民らに手厚い医療をほどこし、尊敬された隆三郎がよく言う冗談であった。
隆三郎がもとめていたものは、農業従事者に病人の出ない農民生活の近代化であった。アメリカで延べ十年以上も生活をしてきた隆三郎からみれば、明治後期の上郷の農民生活はあまりにも零細で因習的であった。隆三郎は地域住民の治療にあたる傍らチーズを自ら作ったり精米機を考案した。もっと農民に栄養がとれないものか、もっと楽に収穫ができないものかと、医業そっちのけと思えるほど農業生活改善のための発明研究に力をそそいだ。定温を維持することによって、鶏の卵をひなにかえらす、孵卵器をアメリカから導入したのも父隆三郎であった。
忠右エ門の生名は『巴(ともえ)』である。父の隆三郎がパリに滞在していた時に生まれたので、巴里の巴をとって名ずけられたと生前忠右エ門が家族に語っていた。
長期にわたるアメリカ滞在中に、フランスへ旅行をした時のことであろう。
稲垣の「ともちゃん」と誰からもよばれた。家族は両親、兄の元、次兄の隆、姉のすあがあり、異母兄に他家に養子に出た洋一がいた。兄の元は明治二十年生まれ。巴より十六上で、すでに父と同じ道を進むべく医学の勉強に入っていた。
巴の幼年時代はかなりの腕白少年だったようだ。広い屋敷の中でのびのびと育った。犬が好きで、巴が外へ出る時はしばしば犬をつれていた。他家の犬と出会うと、けしかけて争わせたりした。
屋敷以外での巴の遊び場はもっぱらとなりの行福寺の境内であった。枡塚にはこの行福寺の稲垣屋敷が隣あわせで、とびきり広い面積を擁していた。行福寺には御堂を囲むようにして木立が茂り、かっこうの遊び場であった。わが家の庭でも寺の境内でも、巴が好きなものは『相撲ごっこ』であった。巴が六歳になった明治四十二年の六月に、大相撲の殿堂ともいうべき両国の国技館が開設された。定員一万三千人の国技館オープンには、相撲協会委員長の板垣退助伯爵の先導のもと、各界名士の見守る中で、東西人気の常陸山梅ケ谷の両横綱が相対して上・中・下段の構えを演じて、やんやの喝采を浴び日本中に相撲旋風をおこした。三河の在の枡塚に住む少年たちの間でも、相撲はなによりもの遊びであり、体力気力の養育になった。
巴の体は付近の子供たちより、ひとまわり大きく屈強だった。食べるものさえ不足な時代だったが、巴は恵まれていた。壮健な身体は医師を父にもつ家庭に育ち、栄養を充分に得られる環境にあったからでもある。相撲をとっても同時代の仲間に負けることはなっかた。
また近くには矢作川が流れ、川遊びが楽しめた。川魚をすくったり釣ったり、あきれば広い川原でチャンバラごっこ、そしてここでも相撲をとった。巴少年が遊ぶ場所にはことを欠かなかった。後年、能登の七尾市石崎町出身の輪島が横綱になった。輪島がまだ幕下にいる頃から、忠右エ門が物心両面で熱心に輪島を支援したのは、輪島塗を扱う忠右エ門の商魂からというよりも、幼少時代から最も好きだった相撲への愛着があったからである。
小学校に通っていた巴が八歳の時、母のもとが他界した。何ひとつ不足なく育ってきた巴が、はじめて味わった寂しさであった。
継母ときが家に入った。
巴は新しい母になかなか馴染むことができなかったようである。五つ年下の妹きよは、まだあどけない幼女であった。姉のすあは多感な思春期を迎えていたが、義母のときと弟妹の巴・きよの間にたってなにくれとまめに面倒をみた。巴にとって姉のすあはたよれる姉であり、後年にいたっても姉を尊敬し慕った。わがままのいえる姉であった。
昨年の秋から暮れにかけて、今は名古屋に住む忠右エ門の兄妹で、ただ一人ご健在でおられるきよさんにお会いでき、兄忠右エ門の幼少の頃のことをお聞きすることができた。きよさんはもう八十歳をこえているが、いまも端正なお顔と物腰で語ってくれた。記憶力のいいお方である。
「巴ちゃんは義母には可愛がられたほうです。でも、兄からみればそうも思えなかったのでしょう。母になかなか馴染めなかったのは私のほうでした。小さいながらも女同士の微妙な神経を働かせましたよ。それから、兄は小学校の時から学校でも喧嘩が強く、私は兄がいるために誰からもいじめられることがありませんでした」
「相撲と柔道が得意だったようです。一緒に歩いていると、いきなり『巴投げ!』なんで私を草むらに放り投げたりしたものですから、私も、女の子仲間では誰にも喧嘩では負けなかった。ええ、女の子同士でも相撲やけんかもしたものです」
きよさんは笑って大正前期のころの思い出を披露してくれた。
義母のときは身体も弱く、しばらくして若くしてこの世を去った。
大正五年、地元の小学校を終えると、巴は愛知県立岡崎中学校(旧制)に通い始める。家からおよそ三里(12㌔)の道のりを自転車でかよった。矢作町から矢作橋を渡り、岡崎に入ってから南に下り戸崎にあった。岡崎中学校は明治二十九年に開校、質実剛健を校風としていた。人生劇場の作者としてしられる尾崎士郎などを輩出した学校である。生徒数は六百名で、ちなみに同年の入学状況は、同校の沿革によれば志願者数百八十八名で入学者が百四十名となっている。
学校は矢作川にほど近く、田畑を前にして低い丘が後部にあった。七棟からの校舎は本館、三棟の教室、講堂のほか、寄宿舎と銃器室があった。
大正三年七月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して、大きな渦をまきこんで第一次世界大戦が勃発した。数年にわたり泥沼状態がつづいたあと、大正八年の十一月にドイツが連合国との間に休戦協定に調印して大戦は終わった。学校内に銃器室があったのは、平成の時代ではとても考えられないことだが、当時の時代背景をよく反映している。
「中学時代に巴ちゃんは、勉強よりもあいかわらず柔道相撲が好きだった」
これも妹のきよさんから聞いた話である。
十六歳も年上の兄の元じゃ、父隆三郎とあとをうけて秀才の誉れも高く、すでに医師として父に代わって医院経営の中心となっていた。稲垣家は先祖代々から界隈きっての素封家として知られていた。明治維新以降、祖父の真郎は明治中期の著名な漢学者として、また父の隆三郎は明治の中後期に二度にわたってアメリカに長期滞在したという傑出した人物であった。そんな家系であった。
岡崎中学をあと一年で卒業というところで巴は退学をする。退学の理由は今になっては知るよしもないが、中学生活があまり快適なものではなかったことはたしかなようだ。勉強はあまり好きではなかったと、後年家族の者に漏らしていたという。
世間というものは時には皮肉な見方をするものである。秀才の家系にあっては巴も当然『秀才』でなければならない、と周囲の人々は見がちであった。巴はごく普通の少年であり青年であった。祖父が、父が、兄が、たまたま稀にみる秀才であっただけなのである。
中学をやめた巴は暫くぶらぶらとしていたようだ。そのうちにモールス信号を習いに出た。将来のために技術をもっておくことがいいのでは、という周囲の勧めもあったようだが、巴にとっては直接この技術を活かすことはなかった。かなり習熟したモールス符号の技術も、巴を釘づけにするほどではなかった。
その後、兄が経営する病院で手伝いをしたこともある。父が発見した『天下一品散』は、下痢止めの胃薬として三河地方では評判をよんでいた。その薬の販売部門を親が自分に任せてくれるかも、という気が巴には多少あったようだが、はたして巴自身がどこまで関心があったかは、多少あやふやだったようだ。すでに医院の経営は兄と兄の嫁が立派に切り盛りをしていたこともあり、巴は自分の居場所がなくなっていることを感じていた。姉のすあはすでに西尾の高橋家に嫁いでいた。
二十歳をすこし過ぎていたが、巴にはきまった仕事もなかった。相変わらず兄の手伝いをしていたが、それほど力の入る仕事ではなかった。恵まれているといえば言えたが、巴にはうつおしい日々でもあった。熱中している自分をどこにも見出すことができなかった。一般の家庭なら、もうとっくに社会に出て働いている年齢になっていた。
巴の自立にはまだ時間がかかるようであった。
ぶらぶらしていてもしょうがないからと、自分の思いからか兄の勧めからか、あるいは姉の計らいからか、巴は西尾市に嫁いでいる姉のすあの家をおとずれた。すでになんどか来てはいたが、この時の滞在は長かった。そして長年住み慣れた郷里上郷からの旅立ちであり、この高橋家への訪問が巴の自立の出発点となった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して