2021/10/10 17:39
藩政も末期、万延元年(一八六〇)三月三日の雪の朝。時の井伊大老が十八名の水戸浪士などによって刺殺されるという桜田門の変がおきた。その年の七月七日に、忠右エ門の父隆三郎が生まれている。
長兄である十一代目の当主真郎の養子となり、学問の父から漢字・国学を学んだ。
明治十年、十六歳にして上京。済生学舎に医学を学び二十一歳で医者となった。明治二十年頃には秋田県で鉱山医を勤めていたが、その後医術の研究と地理学などの広い知識を外国に求め渡航した。二度の訪米で延べ十四年という長期にわたる滞在をして西洋事情を身をもって修得してきた。
今から百年あまり前に、すでに三河の在から米国に十四年間も行っていた人物がいること事態がなんとも快挙である。また隆三郎は韓国にもでかけ研鑽に励むといった具合で、明治維新の気運に乗じておおらかに羽ばたいた。西洋梨やトマトなどを初めて輸入したのも隆三郎であったという。
帰国後、岩津町大門村(現岡崎市岩津町)で医院を開業、明治三十三年には碧海郡上郷村(現豊田市上郷町)枡塚の行福寺のとなりに移転した。三千坪ほどの広い屋敷内には、医院と住宅のほかに馬小屋、竹林、鯉を放った池などがあった。
隆三郎はどちらかといえば、医師の仕事の方はいたってのんびりと従事するタイプだったらしい。逆に付近の農民らのための生活改善指導については、異常なまでに力を注いだようだ。
牛や山羊を飼って乳を飲む習慣をつけた。卵を食べるために鶏を飼った。空き地に果樹を植えた。さらには、トマトなど自分で作ったものを道を通る人々に「食べてごらん」とすすめたりしたが、食べる人は殆どいなかった。
またもみすり機や精米機を自ら制作し、村の若者を使って実際に動かしてみたりした。鯉を池に放っていたのも、農民に不足気味の動物性蛋白の補充食になるのではないか、という考えからであった。
だが農民のほうでは、隆三郎の考えについて行けないことが多かったようだ。
隆三郎は医院での利益を、農民の生活改善のために費やしてしまうことがしばしばあった。後に上野地区で開業した長男の医師元に大きな経済負担を追わせ得てしまうこともあったようだが、明治の時代に外国に飛び、医術の研究を深め新しい時代の生活ぶりを、いつも手にとり実験してみせてくれた隆三郎に対する農民の親しみと尊敬は絶大なものであったろう。
「祖父(隆三郎)は五十年ほど先を歩いていた人ですよ」
と、最近語ってくれたのは、隆三郎の長女すあのご子息で、愛知県西尾市で中善楽器・中善画画廊を経営する高橋和平さんである。農民とともに歩みながらも、農民が隆三郎の先見さについていけなかったことが、この言葉でよくわかる。
隆三郎が発見して大いに売れた売薬があった。『天下一品散』である。下痢どめ整腸薬として広く流布した薬事法にもとづく薬で、三河地方はもとより言葉の尻に「べえ」がつく、おそらく関東地方あたりからも、時には評判を聞いて買いにきたというほどのヒット薬であった直孫にあたる十四代目の稲垣医院の束(つかね)先生に、天下一品散とはどういう薬かお訊ねをしてみた。
「簡単にいえば木炭末と洋ビスが主成分で、粒子の細かい木炭末が菌や毒を吸着する力が強いのに目をつけ、それには桐の灰が最適と判断、それを入手するよう手配されたのではないか」
ということであった。ここにも隆三郎の着眼ぶりがいかんなく発揮されている。
明治四十年代になり、長男の元が医大を卒業し郷里に帰ってきたので、隆三郎は長男に後を一切任せて気ままな身分となった。元が任されたのは医療のことだけではなく、弟や妹たちの学費やら嫁入り支度などの一切を任せたので、当分の間、元の苦労は並み大抵のことではなかった。
そんなこともあって十三代目の元先生は枡塚から近くの上野地区に出て開業した。
晩年になって、隆三郎は三河湾に浮かぶ無医村の佐久島に、請われて村医になることを引受け、身の回りを世話してくれるかねという女性とともに島へ渡った。
ここでの生活は殆ど知ることができないが、隆三郎の末娘で忠右エ門の兄妹中ただひとり今も健在でおられる、遠藤きよさんや、前出の束先生の話しからすると、島の人々と同化して島民の幸せの為に精いっぱい生きたことが推測される。またユーモラスな生活ぶりであったことも窺える。
昭和六年前後のことであろうか、佐久島に伝染病が流行った。多くの人がかかたために、島の年寄りたちを呼び集め、隆三郎先生は言った。
「新しい薬をつかえば早くなおる。薬代は高いが今すぐに結論を出せれば、生命は救えるだろう。このままでは蔓延は防げない」
島の衆にとって高額の薬は高嶺の花ではあったが、先生がそこまではっきり言うなら、ここはお願いしてみようということになった。
隆三郎は子息の元に緊急連絡をとり、県の出張職員に血清を至急持たせるよう指示をした。血清の投与で全員助かった。後に島の人達から「隆三郎先生は島の命の恩人」といつまでも讃えられた。その時のことである。愛知県から来た職員が、
「まあーびっくりした。この島に最新の薬を使う先生がいたのにもびっくりしたが、その先生の年のとっているのにもびっくりした」そうである。
当時七十歳になっていた隆三郎は、まさに大年寄先生であった。
忠右エ門とキクエ夫人が三重県で前年結婚し、翌年一月に輪島へ移った数ヶ月後の昭和七年四月九日、隆三郎は佐久島の診療所で入浴中、脳出血の大発作で死んだ。
「先生は自分が湯潅までして行ってしまわれた」
と、これも島人のあいだでの語り草になった。
人生はおおらかに、したいことはなんでもやる、謳歌ざんまいの隆三郎の生涯であった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して