2021/10/10 17:36
忠右エ門の祖父、稲垣家十一代目の真郎は幕末に生まれた。明治維新の大きな波のうねりの中で、累代の当主とは異なった道を歩んだ。異色の道は清新な人生街道であった。祖父の真郎と父の隆三郎は実の兄弟だが、長男の真郎に子供がなかったため、隆三郎を養子に迎えたのである。
矢作川の河川事業に累代従事してきた藤次郎家は、碧南の伏見新田の大地主となっていた。その十一代目を継いだ忠右エ門の祖父(血筋では伯父にあたる)真郎は嘉永四年(一八五一)に生まれている。幼少の頃より学問を好み語学に秀で、七・八歳で四書五経をそらんじ、十一・十二歳で詩を賦すというほどの秀才であった。世間では藤次郎家の天才と讃えた。
しかし時は幕末の世で、勤皇の正義は未だ暗中の憂いの中にあり、国学者村上忠順とともに勤皇の大義を論じる時を待っていたが、明治維新によって民政安定がはかられ、真郎は京都に上がって国学者と交わり『史記伝』を著した。
根っからの学者肌の真郎が、一時期事業に顔を出していた時代がある。明治維新政府は新しい社会経済のシステムを外国から導入しようと、いろいろともくろんでいた時代であった。
銀行制度についても同様で、明治五年に国立銀行条例を定め、米国ナショナルバンク方式を模倣した株式会社組織の民間銀行が発足した。第一番目の創設が東京(勧業銀行)で、第八国立銀行は東海地方で初めての銀行であった。豊橋で創立されたのが明治八年のことである。この銀行設立の中心人物となったのが、福沢諭吉の信頼もあつい、そして諭吉の理論を実行したひとりでもある中村道太である。中村に心酔していた稲垣真郎ら五名の者が設立出願人となった。そして明治九年十二月に認可がおり開業の運びとなった。明治十年前後に発行された一円紙には、頭取の関根録三郎と支配人の稲垣真郎の氏名が刷られている。
だが銀行経営は思うように捗らず、明治十二年に早くも破綻をきたし、明治十九年には第百三十四国立銀行(名古屋)によって吸収されるにいたった。
稲垣真郎が国立第八銀行創立事業に顔を出したのは、学問の道で心酔していた中村道太の、たっての要請をうけたことによるもので、また当時は出願人となる人物は、真郎のような大地主や財閥でなければ認可されなかったのであろう。学者肌で旧家の大地主の真郎には、銀行の経営などはもともと不向きだったものと思われる。
銀行をやめた真郎は中村の世話で東京の丸屋商社(後の丸善)に入る。学問の世界にもどるや、追い風を受けるように次から次へと著書を出した。
得意の漢文学講義を興文社より世に送り出すが、少年叢書シリーズで出された全二十四巻のうち『四書、史記列伝(上・中・下)、春秋左氏伝(一~四巻)』の八編を著すというハイペースぶりであった。ちなみに当時の書籍代は一冊三十五銭、郵送料が六銭となっている。
真郎は谷も孟子講義、十八史注釈なども著し、明治二十五年には大著『要字鑑』という辞典を編纂した。明治三十五年の七版発行の辞典が、曾孫にあたる稲垣十四代当主で、医者を経営する稲垣束先生の書棚にいまも大切に保持されている。
真郎の数々の著書は明治中期から後期にかけて、日本の多くの秀でた青年らに読みつがれ、漢文学の知識向上に大きな貢献をしたが、明治二十七年十月三日、惜しくも四十四歳の若さで脚気衝心のため、この世を去っていった。まさに明治の青春にひたすら生きた学問ひとすじの人であった。
----- 目次 -----
1章 故郷三河の稲垣家
2章 塗師屋への道
3章 苦闘の時代
4章 漆器組合の理事長に就任
5章 漆器と観光の船出
6章 逝去、子息らに夢を託して